消去法

 別に不幸ではないから、幸せを敢えて追い求めるようなことをする必要はない。どうせ幸せが何かなんてわかっていないのだから、どちらをむいて何を求めればいいのか、そこからして頼りない。幸せがなにか今だ分からないが、少なくとも分かってきたことは、明かにこれは幸せではないなというものが見えてきたことだ。言われつづけた、聞かされ続けたもの達は、どんどん幸せレースから落伍していった。お金、学歴、家柄、名声、肩書、職業、どれも幸せの尺度では測れない。幸せの篩(ふるい)から、簡単に抜け落ちてしまう。  幸せを定義できない僕は、追い求めるものも無く実は淡々と毎日を過ごしている。ところが僕に相談をしてくれる人達の幸せは祈らずにはおれないのだ。僕はもう終わっているけれど、多くのまだ見ぬ人達は、これからの人たちなのだ。これからの人達が、人生をあきらめたような内容の言葉を送ってくることには、心が痛む。僕が幸せ一杯ならそれらの哀しみ、絶望を風呂敷の中にしまい込んでサンタクロースのように闊歩できるのだろうが、あいにく僕は淡々と道路の端を歩いているにすぎない。僕と同じように道端を選ぶ必要はない。側溝に幸せは落ちていない。縁が出来た人に、誰一人脱落することなく幸せになって欲しい。幸せを確認できるくらい幸せになって欲しい。幸せを表現出来るくらい幸せになって欲しい。僕らの幸せは所詮消去法の域を出ないのだから。