野菜

 調剤室で薬を作っていると、わざわざドアのところまで顔を覗かせて、「来年もよろしくお願いします、よいお年を」と言ってくれた老人がいた。手にはダンボール箱を抱え、一杯の野菜が入っていた。膝が悪くてもう何年も漢方薬を飲んで下さっている方で、歩くのもビッコを引きながら辛そうだ。なんとか漢方薬のお蔭で百姓が出来ると喜んでは下さるが、歩く姿は痛々しい。平地でさえ、不自由なのだから、畑の中ではさぞ辛かろうと容易に想像できる。  都市部に住んでいる人にとって、老人はどのように見えるのだろう。時間とお金をもてあましカルチャーセンターに通う人に見えるのか、身よりもなく施設に預けられる人に見えるのか、帰る家庭をなくし公園のテントの中で眠る人に見えるのか。僕の町では、老人は働く人に見える。不自由な足を引きずり、紫外線で深くした皺が一杯の顔で、畑をたがやし、作物の成長を喜ぶ人に見えるのだ。軽トラックに一杯の収穫を載せ意気揚揚と集荷場に運ぶ人に見えるのだ。最期歩まで働く人に見えるのだ。作物を都会に住む息子や娘に送り、ひび割れた手にワセリンをすりこむ人に見えるのだ。  スーパーでコンビニで弁当を買うとき、田舎で地面にはいつくばって草むしりをする老人を思い浮かべて欲しい。その弁当は、よそを向いたまま、抑揚のない挨拶を繰り返す店員が作ったものではない。赤剥けた手から血を流す、それこそ血の通った老人の作品なのだ。