歯車

 なにの番組かしらないが、ふと沖縄の三線をひきながら3人組の男が歌っていた。なだそうそうを作ったグループだと思う。僕は沖縄特有のメロディーが好きだから、チャンネルを変えるのはそこで終わり、歌っている男達の後ろ側で、色鮮やかな民族衣装で太鼓をたたきながら踊っている行列に目がくぎ付けになった。商店街の中で踊っているのだが、映像は歌い手のグループにほとんどを割き、後ろの踊り手はほんの借景に過ぎなかった。ブラウン管の向こうで原色の服で、原色のメロディーを奏でる青年たちは沖縄を象徴する風景だ。曲に合わせて数十人が一糸乱れることなく踊っている。太鼓が合いの手のように、唄にメリハリをつけている。  僕は何故後ろで踊っている青年達にスポットが当らないのか不思議に思った。琉球の長い歴史を受け継いで、数十人の心が一つになってたたく太鼓の音、踊りの高揚感。それの前で歌っている3人の唄が勝っているとでも言うのか。まさに本末転倒だ。  このところそのような状況を多く目にしてしまう。誰が主役であるべきか検証が全くない。テレビだけではなく、すべてのマスコミがそうだ。話題性があり商品になると思えば善悪を押しのけて、露出させる。結局は金を多く持っている人間たち、力を多く持っている人間たちにとって都合のよい洗脳され易い人間が製造されつづける。この国を支えているのは名もなき一億の歯車だ。いつでも都合よく取りかえられる歯車だ。しかし、この歯車は感動もし、哀しみもし、怒りもする歯車だ。すりへって動けなくなるまで生きたいと思う歯車だ。ゆめゆめ、軽んずるなかれ。