刻石流水

 本当に魔が差さなくてよかった。もしあの時魔が差していたら、今頃自分から逃げることが出来ずに相当傷ついていたと思う。例の大分県のヒーローのおかげで、多くの人がこれからほんの少しだけ上質の生活が送れるのではないか。
 今月の第一日曜日、漢方の勉強会が終わって駐車場まで歩いていた。当日は岡山の「うらじゃ祭り」で駅前が交通規制で通れなかったのでかなり離れた所に車を置いていた。4時に終わったのだがまだ太陽は刺すように照り、体温以上の暑さで少し歩いただけで汗が噴出す。
 ある交差点で挙動不審の老人を見た。黒ネクタイに黒ズボン、さすがにワイシャツだったが、どちらに進むべきか迷っている姿がまるで酔っ払いのようだった。偶然僕と同じ方向に歩き出したが、歩道の点字ブロックに導かれるように歩く。その時点ではまだ気がつかなかったが途中から折りたたみ式の白色の杖を取り出して、それを使いながら歩き始めたから、酔っ払いでないことが分かった。誤解していたのが申し訳ないのと、次の予定まで1時間近くあったので老人の後をゆっくりと僕も付いて行くことにした。多くの障害物を器用に避けるから幾分か見えているのかもしれない。危ないと思いとっさに手助けしようとしたこともあるが直前で全て避けた。
 そして2,300メートル歩いたところで、普通ここを降りないよなと言うような地下道の入り口階段を下りようとした。僕はそこに地下道に通じる階段があることすら知らなかったが、何となく老人がそこを降りていくことに違和感があった。降りる前に老人が辺りを見回して迷っている風にも見えたからだと思う。そこで初めて老人に声をかけた。すると老人は岡山駅に通じる地下道だと思っていたらしく、岡山駅前からバスに乗りたいらしい。それも僕が所属するカトリック教会がある玉野市に帰りたいらしい。正に駅とは反対方向に炎天下を歩いていたことになる。見事に逆方向にどんどん歩いていたので本当に岡山駅に行けばいいのかを数回尋ねた。もし僕に2時間の持ち時間があれば当然車で送ってあげるのだが、それには少し時間がたらなすぎた。そこで駅まで同行することにした。老人も僕も汗を一杯かいていたが、老人は元気だった。「ご主人喉が渇きませんか?何か飲み物を買いましょうか?」と尋ねたのは、実は僕自身がのどが渇いて熱中症になるのではないかと言う不安からだった。
 それから10分くらい、肩に手をかけ友達同士のような格好でバス停まで送った。時刻表まで確かめて、これで帰れると確信したのでお暇を言うと、老人が僕を呼び止めかばんのチャックを開いた。ここからは今なら大分のヒーローを真似できるのだが、なにぶん僕のほうが2週間早い。そこで僕がとった行動は・・・・・・・・・よかった。今頃恥ずかしくて穴に入るしかない状態になるところだった。
 大分のヒーローが言っていた。かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。日本人全員が胸に刻むべき言葉だ。