感謝

 一言で表現するなら「感謝」かな。  タイトルからして謙遜だ。ただの第九ではなく「はじめての第九」だから。最初インターネットでこのタイトルを見つけたときには何のことかわからなかった。そのうち、総社市が初めて自前の第九のコンサートを開こうとしたのだと分かった。かの有名な備中温羅太鼓の地だから、文化の土壌はあり、その経験を生かして第九をやろうとしたことに抵抗は感じなかった。あの地なら出来るだろうなと素直に思った。まして主催がくらしき作陽大学と、作陽音楽短期大学だから、いわばプロの卵達ばかりだ。出来ないはずがないと思った。先週は香川県の綾歌で第九を聴いたが、最近来日したかの国の女性のうち数人がまだ聴いたことがないので、僕にとっては渡りに船だった。おまけに学生主体だからか、初めてだからかチケットが500円には大いに助かった。しかし、演奏のレベルは決して500円ではなかった。素人の僕でも高額の第九と比べて、丁寧さや迫力や音質やソリストのレベルなどの差は指摘できるが、感動を与えてもらったことにはそんなに差はないと思った。特にかの国の女性など、楽器を持って登場する演奏者の姿を見てすぐに「スゴイ」を連発するくらいだから、実際の演奏をどれだけ喜んだろう。まだ日本語で感想を表現できないが、鳴り止まぬ拍手のなかで彼女達も懸命に手を叩いていた。僕を見て両手でvサインを繰り返す姿を見て、第九を聴けた喜びが倍増した。なにやら総社市長がかなり力を発揮したらしいが、裏方の方たちをはじめ、出演者の全てに感謝したい。  帰り道、折角だから備中国分寺の五重塔を案内して帰った。見学の途中で1年前に来日した女性が「オトウサン コンサートミタ サミシソウ」と言った。最初国に帰りたくて寂しくなったという意味のことを言ったのかと思ったが、僕が寂しそうに見えたらしい。でもそれは違う。僕は心底感動し幸せな時間を過ごした。ただ、演奏を聴いている間、いろいろなことを考えた。というよりいろいろなことが脳裏に浮かんでは消えた。浮かんできたことを深追いするわけでもなく、自然に泡のように脳裏から消えて行った。そうした横顔を見て寂しそうに見えたのかもしれない。偶然横に座って、何かの拍子に横を向いて僕の表情を見たのだろうが、「この感動を是非来年も味わいたい」と、どんな演奏会のときにも感じる深層心理に支配されていたのだと思う。無限に横たわる時間をもてあそんでいた頃には決して思いもつかない感情に最近支配されることが多い。そうしたときの表情は他人から見れば「サミシソウ」なのだろうか。今を大切にと、嘗ては考えられないようなことを真剣に思っているせいだろう。  この年齢になると自分の幸せなど取るに足らなくて、追求する気にもならないし価値もない。欲深い大人たちによって食い物にされている青年達に喜んでもらえればそれでいいではないか。果実を分け与えられない青年達に寄り添うことが出来れば、僕の心が少しだけ幸せになれる。それで十分だ。