一体何処に隠れていたものが出てきてこんなに繁殖したのだろうと思う。それともどこからか胞子が降ってきたのだろうか。  テニスコートの柵の内側1メートル近く、角になると2メートルくらいが黒い苔に被われている。梅雨が始まってから次第に柵の下あたりからテニスコートの中央を目指して砂上を占領し始めた。もっとも生徒がテニスボールを追いかけて走り回る辺りには全く生えていないが、踏まれることのない場所には密生している。今年は梅雨が早く始まり、期間が長いから余計に繁殖しているのか、黒い絨毯の範囲が例年に比べてかなり広い。恐らく毎年目にしているのだろうが今年は一際目立つ。  もう一つ今年その存在を否応なしに意識する理由がある。それは、雨が多いせいで常にその苔が濡れているのだ。だからしばしば滑る。運良く倒れなくてすんでいるが結構きわどいことが多い。僕のスリッパの底がすり減って摩擦がなくなっていることが原因として大きいのだけれど、それにしてもよく滑る。まるで幼いときに、海水浴場の傍の岩場でまだ乾ききっていない海藻の上を歩くのに似ている。今でこそその時の危険性を想像できるが、当時は後頭部から岩場に頭をぶつけていれば命を失う程危険だとは考えもつかなかった。幼い子供が自由にそんな遊びができていた時代を懐かしく思うし、親の度量の広さにも驚く。  苔はもし乾いていたら緑色をしているのだろうと思うがいつ見ても黒と表現した方が近いように見える。環境が変化しないところでひたすら這いつくばるようにして繁殖する生命力は僕にはないが、何度も何度も「こけ」た人生だけは負けないかもしれない。いや薬剤師の端くれとして「こけ」にされた回数も負けないかもしれない