卒業論文

 言い間違いだと思う。中学を卒業したばかりなのだから。
 おばあちゃんがお孫さんの漢方薬を取りに来た時に、目を細めながらこう言った。「卒業論文を、俺とダイエットと言うタイトルで書いたらしいです」
 卒業論文?と思ったが、無粋なことは言わなくていい、ただひたすらよかったですねと繰り返した。
 1年半前に、おばあさんが深刻な顔をして相談に来た。お孫さんが、不登校になり、そのせいで肥満になって不憫だと言う。肥満と言っても3桁に迫るものだから、深刻ではある。
 本来僕は肥満の漢方薬を作らないが、さすがに3桁は将来の健康に悪影響を及ぼすので、不登校と肥満の漢方薬を作ることにした。おかげで学校にも行けだしたし体重も19㎏減った。そして何よりも高校にも合格できた。最後の方は、友人を引き連れてキャンプに行ったりしていたから、おばあちゃんも自慢の孫の復活を大いに喜んでくれた。
 僕は本人とは一度も会ったことがない。おばあちゃんが2週間に一度情報を持って来てくれた。そして不思議なのだが、両親にも一度も会ったことがない。
おばあちゃんに任せきりできるほど信頼を置いているのかもしれないが、なんとなく違和感も覚える。
 こうしたケースはよくあり、現代の家庭の複雑さを想像する機会は多い。いい悪いではなく、従来の家族像では多くの混乱をきたす。
 多くの人が、画一的な息苦しさから解放されつつあるのに、大いにそれに抵抗する組織もある。今己の欲望を満たすに好都合な制度や価値感を破壊されたら困る人たちだ。世を謳歌した人達だ。個人の解放は団結したがらない人たちが背負っているので、皮肉なことに、ノスタルジックな集団に勝てないと言うジレンマに陥る。自由を勝ち取るために不自由を受容する。覚悟はいつも置き去りにされる。