発展

 どの県知事だったか忘れたが、岡山県の西部ばっかりに力を入れて、東部が置き去りにされた。牛窓も東部だから人口は減る一方だ。たまに倉敷辺りに行くが、必ずといっていいほど渋滞につかまる。日曜日しか動かない僕だから平生の通勤時にはどのくらいの渋滞になるのか想像もつかない。田舎者の僕には耐えられない規模だろう。東部が置き去りにされたことを、少しばかり恨むことはあるが、僕の中ではそれほどの意味を持っては来なかった。
 今日ある用事でまさに岡山市から西へ西へと車を走らせ多くの用事を済ましたのだが、まあ、ゴチャゴチャしていて、これが発展だとしたらごめんこうをこうむりたい。道は狭いし、と言うか、国道からわき道に抜ける道の狭いこと狭いこと。さらにそのわき道から又わき道に入ろうとしたら、初めての人間は余程勇気がないと入っていけそうもないようなところばかりだった。かつて、どのくらい無秩序に開発されたか想像が付く。小さな家々が密集し、小規模なアパートが点在する。道路には車が溢れ、スーパーに入るのも苦労する。
 多くの人々を眺めたが、ここでは僕の仕事はできないと思った。殺風景が作り出す疾患が多そうだが、そうした人々を治すには同じく殺風景な中で暮らしている人間には無理だ。治療する側が毎日、自然に癒されてメンテナンスを受けていなければ本気の治療などできるはずがない。こちらのほうが参ってしまう。そこまで本気になれるだけの自然環境が必要だ。漢方を扱う人間にとって最大のキーワードは自然。その自然をなくした街で自然を売り物になどできない。
 国中が殺伐としているが、こうした環境の中で暮らしているとそうなるのも分かる。息がつまりそうと感じる街で、息がつまらないのだから不自然は極まっている。