弛緩

 人は好きなことで身を立てるか、身を滅ぼすかどちらかだ。僕みたいに満遍なく出来ない人間は、身を立てようも滅ぼしようもない。だから平々凡々と生きていく。いてもいいしいなくてもいい部類だ。  ところが彼は違う。好きなことで再び、いや三度法務局に出張に行くのかと思った。1度行くと1年半くらいは帰って来れない。3回目となると出張は少し長引くのではないか。彼に尋ねてみると「もう絶対行きたくない」と言うが、性癖は変わらないみたいで危ういところだった。  ある宗教家に救われたみたいで、修行をさせてもらうらしい。住み込みで働き養ってもらうのだろう。そんな彼が「どこか紐がないかなあ」と言う。丁度その前に西の方で起こった事件の犯人探しの話題で盛り上がっていて「あれはお父さんだ」なんて推理を働かせていた。多くの人がそう思っているだろうから特別冴えているとは思わないが、彼が興味を持ったのは犯人ではなくロープのほうだ。僕は長年の付き合いからその意味がすぐに分かった。「なるべく強いほうがいいんじゃないの?」と尋ねると「ぶら下がっても切れん(切れない)くらいがいい。弱いのはいけん(ダメ)よ」と答えた。「もう未練はないの?」と尋ねると「そんなもん、あるもんか。後ろからきゅっとやってくれたらいいのに」とジェスチャーを交えながら答えた。  身を滅ぼすほどに飲み、身を滅ぼすほどに打つ。傍で見ているとなんて幸せな人生なのだろうと思うが、そうではないらしい。何もかも失って、自立して生きていくことが出来ない。誰かの温情にすがるが、仇で返すことが多い。酒も博打も病気だ。「病気だから治らん」周りの人がしばしば口に出し、そうした人は手を差し伸べない。差し伸べないほうが彼のためだと、とても説得力がある言葉を口にする。好き放題が行き着いたところか、病気が行き着いたところか判断に迷い差し伸べる手が途中で止まるのだろう。  僕はぶら下がるロープは貸せないが、よじ登るロープは貸してあげたい。僕の人生でもっともよく僕を笑わせてくれた人だから。職業的に緊張を強いられている僕を30年間目一杯弛緩させてくれた人だから。