三段跳び

 売り言葉に買い言葉ではないが「元気じゃったら、こんな所に来りゃあへんわ(来ないわ)」と即座に返って来たから、かつての面影はかろうじて残している。その言葉も返ってこなかったら本当に心配だ。  声だけは10年以上前と変わっていないが、見掛けは哀れなくらい変わっていた。ただ歳を取ったというだけならかまわないが、病気で風貌が激変したのなら可哀想だ。「元気そうじゃな!」と声を掛けたのは、そう掛けなければならないような気がしたのだ。見るからに元気な人に敢えて元気そうと言う必要は無い。本人はそんなこと意識もしていないだろうから、挨拶にはならない。ただ、いかにも健康を損ねている人には、正反対の言葉を掛けて自分で体調不良を言える環境を作て上げるほうがいい。多くの言葉を持っている人なら、そこから詳細にわたって自分の不調について話してくれる。言葉が苦手な人は彼みたいに単発のギャグで返す。「そりゃあ、そうじゃ。元気なら来んわな(来ないね)」と、僕が彼のギャグの健在ぶりに喜んだら、自分が陥っている症状について自分から話してくれた。何で僕の薬局に今更処方箋を持ってきたのか分からないが、見るからに怖そうな彼のことだから、よその薬局では無難な応対をしてこられたに違いない。ただ僕は嘗てあることで若干交流があったから、そして僕はチョイ悪くらいが気が合うので、彼にとって耳の痛いことまで言った。  ひょっとしたら10年ではきかないのかと彼が帰ってから思った。僕が最後に彼を見たときは、スマートで健康そうで、なかなかハンサムな30代だった。今はじゃあ何歳?と思わせる老け様だったのだ。年齢が僕に追いつくのではないかと思えた。もっとも僕も自分のことは言えない。彼もまた久しぶりに見た僕をなんて変わりようだと哀れんでくれていたかもしれないから。  ただ、心を酷使し、肉体を酷使し、環境を酷使した人は老けようが激しい。歳相応を三段跳びで駆け抜けている。逆に心も体も環境さえも穏やかな人はやはり若い。下手をすると若すぎるほどだ。同じ生きるなら、穏やかに生きたいものだ。