対話

 帰国を控えたかの国の女性達に一番喜んで欲しいのか、今回も僕たちを案内してくれた京都在住の女性に一番喜んで欲しいのか、僕自身が一番喜びたいのか分からなくなっている。少なくとも僕が喜ぶ事が一番ではないと自信を持って言いたいが、僕の未体験コースを開拓してもらえれば、好奇心も俄然湧いて来る。今日は旅行記みたいなものを敢えて書かない。ある光景に自分の非力を感じたのでそのことについて書いてみたい。  連れて行ってもらう受動的な旅だから、名前などはっきり覚えていないが、確か天龍寺と言ったと思う。女性が興味を持っていた石庭があるから、女性に一番喜んでもらいたかったが、ダントツで喜んでいる人たちが既に沢山いた。それも静かに。  敷き詰められた砂利、そんな低級なものではない。正式な名前を知らないから便宜上そう呼ばせてもらうが、その上に12個?の大小の石たちが置かれている。もちろん無造作ではない。何かを象徴しているのだと思うが、どの方向から見てもその12個が重なるところがあって全てを一度に見ることはできないなどと解説してくれた。それだけ教えてもらえば、僕が目撃した光景のように真似ることも出来るだろうが、そこは今回感じた僕の感受性の低さで、僕はまるで修学旅行生のように見学しながら移動しただけだった。  その石庭を眺めるために、寺の廊下?縁?一杯に腰掛けている人たちがいた。その後ろをカメラを覗きながら通り過ぎる人達とは違って、一様に静かでじっと庭を見つめていた。まるで美術館で静かに絵と対話をしている人のように。ある意味それは衝撃だった。京都観光の僕のイメージは、見て歩く観光だったから。見ながら移動することが観光であり京都そのものたったから。ところが廊下の縁側に腰掛けて動かない人達は違っていた。明らかに鑑賞し味わっていた。どんな感情が彼らの中に沸いてくるのか、無感動の僕は教えて欲しい。そのことを女性に言うと、彼女は「知識を増やせば感動できるのではないでしょうか」と答えた。なるほど、それはすべてのことに当てはまるだろう。僕は旅行とか観光とかに全く無頓着だったから、そのあたりはかなり遅れている。正に行き当たりばったりが人生と同じく好きだったから、予備知識全く無しだ。  和太鼓にしても、ベートーベンの第九にしても、自然と聴き手として成長していることは自分でも感じている。京都を味わう上でも同じことが言えるのかもしれない。ひょっとしたら、一握りの洗練された京都上手の人達は、目の前の風景と対話できているのかもしれない。