定年

 今日、法務局帰りの友人が、小さなポスターを持ってやってきた。老人がギターを抱えて唄っている姿だった。目を閉じて唄っている姿だったが、持ってきた本人の写真かと思った。その品のなさ、やつれ具合、そして何より顔の構造がそっくりだった。冗談で作ったものかと思ったが、そのライブの案内のポスターには、嘗て「五つの赤い風船」と言うフォークグループの一員だった人の名前が書いてあった。僕はポスターの案内を見るまで本気で僕の友人かと思った。それくらいのドッキリはする人だから。  僕の友人は、実年齢より10歳は老けて見える。歯もない、髪もない、金もない。ないないずくしでわが道を行っているが、その彼と瓜二つのその歌手が、良くぞそれで今だ歌で稼いでいるなと思った。学生の時、岐阜で五つの赤い風船のコンサートに行ったことがあるが、少なくとも僕よりはかなり年上の人たちのように見えた。とすると70歳に手が届いているかどうかと言うあたりだろう。その年でギター片手に全国のライブハウス回り?昔ならとても考えられないことだ。僕ら素人は、学生が終わるとともに歌も終えたが、まさかあれからずっと音楽に携わりながら生きていく人がこんなに沢山出ようとは思いもよらなかった。僕らが青年の頃はやはり人前で唄うのに、定年と言うものがあった様な気がする。それが僕らが大人になり中年になり、老年になるにつれて定年も延びた。いわば僕らの世代がやり終えるまで定年は存在しないと言うことだ。  スポーツ界を見ていてもそれは感じる。野球界でも相撲界でも、スキーのジャンプの世界でも定年をひたすら延ばし続けている人がいる。食べ物か、労働環境か、医療の発達か何かわからないけれど、現役が大挙して歳を積み重ねている。3000円と言うチケット代にたじろいで断ったが、「自分を見ているよう」と言う、世にも恐ろしい光景を避けたような気もする。