金だらい

 その雲を見てしまったばかりに、結構プレッシャーになっている。携帯で写せば簡単にその時の雲の珍しさを共有できるのだけれど、なにぶん何も持っていないので貧弱な言葉で説明しなければならない。それが出来るかどうかかなり不安だ。素人だから出来ないことは最初から企てなければいいが、そこは潔癖症の僕だから、今回だけ文章にしないのは許せれない。へんなプライドがまたまた邪魔をする。  実はその雲を見上げながら、どう表現したらこの感動を皆さんに伝えられるのだろうと考えた。狭いテニスコートを早朝何度も何度も周回したのだが、さすがに良いアイデアは浮かんでこなかった。北にオリーブ園が迫っているから、空の4分の3くらいを覆っている雲は一様ではない。恐らく僕が見ている雲のさまは無限のバリエーションで空を覆っているのだろう。それを無限の言葉で追いかけるわけには行かない。気弱になりながらも、何か表現できる言葉を捜していた。そして結局あるものを思いついて、書けるかな?と思うことが出来た。  大きな洗面器、いやいや小さすぎる。僕らが子供のときは金だらいと言うものがあった。祖母や母がそれで洗濯をしていた。子供だったら水浴びが出来る。その金だらいに水をはり、墨汁を筆でたらしたらどうなるだろう。恐らく円形に中心部は濃く、先端に行くほどうすくなる。次に、筆を水の中で曲線を描くように動かしたらどうなるだろう。筆に近い部分は濃く、既に筆から離れたところはうすいだろう。そしてそれを人間の手ではなく、多くの筆で多くの場所で一斉に行うとどうなるだろう。幾重にも重なったところは濃く、又先端同士が重なったところはそれよりもうすく、その重なり具合は無数の組み合わせがある。そして形も。基本的には筆を曲線状に動かしているから、多くの曲線がなせる無数の形が出来るのだが、曲線と言う共通項を残しているから、あたかも統一が取れているように見えて、実はどれ一つ同じものはない無数の造形が金だらいを埋め尽くす。  正にその造形が空と言うキャンパス一面を覆い尽くしていたのだ。今にも雨が落ちてきそうな雲と、軽くてずっと高い位置を泳いでいる雲とが、重なって奥行きも作っていた。驚いたことに、はるか低空を1人独立したかのような綿菓子雲が北から南へなびいた。  僕は飽かずに眺めていた。こうしたことに興味を持つことが出来て、歳をとるのも悪くはないと思えた。ただこうした感情も、首や腰の重だるさに比べれば、些細なものであるといえるほど、歳をとるのは本当は辛いものだ。