壮絶

 とても良く効いている煎じ薬を取りに来るのが数日遅れているから、どうしたのかなと心配していたら、お母さんが亡くなり葬式などでばたばたしていたらしい。そのことを教えてくれたときに僕が最初に口にした言葉は「それはそれはおさびしいことで!」と言うような格式ばったものではない。そんなことを言うと舌を噛んで血だらけになってしまう。「本当?よう生きたな。骨と内臓しかなかったのに。僕は数年前からお母さんのことにすごく興味を持って見ていたから、すごいよな。人間って、内蔵と骨だけであんなに動くことが出来て、生きることが出来るんだものね。お母さんに教えてもらった!」と、こんなものだったと思う。お悔やみは言わない。ただお母さんが懸命に生きたことを知っているから、お嬢さん夫婦とこんな会話が出来る。二人も、お母さんをしきりに褒めていた。最期の数ヶ月はさすがにやっては来なかったけれど、それまでは本当に人間の強さを教えてもらった。体重が30kgを辛うじて上回っているくらいだから、肉も脂肪もない。あるのは内蔵と骨だけだ。こうした表現は不謹慎から出ているのではない。夫婦とこの言葉を共有している。そのための薬も飲んでもらっていた。治療と言うより補給に近い薬だが、それこそが手伝いになったのだと、お母さんの長生きが証明してくれた。何とかお母さんを元気にしたいと言う希望は病院の治療ではかなえられない。病院は死なないための医療をするところだ。僕は母の経験から、お年寄りはまず飢餓から救うことが大切だと思っている。まるで栄養失調で死ぬがのごとくやせ衰えるのを見てきたから。  肉も脂肪も無くなった人の生き様は、壮絶と言う言葉が一番適している。身をもって教えてくれた人が苦痛から解放されたが、その方はまだまだ生きたがっていた。