何年かいてもまだまだ日本について理解できないことがあるらしくて、時々鋭い質問を受ける。言葉の壁があるからなかなか正確には伝わらない。だから時に大幅に省略して答えることがある。今回の場合もその典型だ。だからこそ、数時間後には反省し、1週間も過ぎればほとんど悔いている。何でそんな低次元の答えをしてしまったのだろうかと。  通訳としてやってきている女性に「オトウサン ナゼニホンジン ケッコンシナイ」と聞かれたのは丁度1週間前だ。「オトシヨリバカリ オトシヨリゲンキ」と来日してすぐそう感じるのか、多くのかの国の青年達が同じような感想を言う。それに対して彼女達には、およそ過ぎるが「日本人の半分は結婚しない。そして結婚した人の半分は分かれる。子供も生まない」と説明してきたから、「日本の生活が便利になって結婚する必要がなくなったからだよ。食事はコンビニ、洗濯はコインランドリー、衣服は使い捨てと奥さんがいなくても回るのよ。そして女性も、自立している人が多いから、頼りない主人の下着を洗ったりしたくないでしょう」と言うようなことでお茶を濁した。喋った後すぐに自分でも居心地が悪かった。正解とは程遠いのが自分で分かった。  この1週間、仕事をしているときでもこの居心地の悪さが甦った。そしてなんとなくいつも頭の中に回答を求める自分がいた。もう少しまともな、それだと思えるような答えに行き着きたかった。そしてついに自分なりに納得できる答えに昨日たどり着いた。キーワードは「家」だ。まだ僕らが青年の頃は「家」は概念の中でかなり重要な地位を占めていた。さすがに封建時代ではないが、今の人たちから見ればそれこそ封建時代並に存在感があった。「家」は僕らを無意識のうちに縛り付けていたものなのだ。家の為に、家を絶やす、家柄、家を守る・・・何か呪文のように有難く奉られていたものが、いまや全く価値を置かれなくなった。いわば家はどうでもいいものに成り下がってしまったのだ。若い人たちは何のこだわりもないのだ。「家」からの解放が、どれだけ自由な人生になるだろう。最早「家のため」は死語になってしまった。正に「家」より自分の時代が来たのだ。しがらみから解放された人が、結婚などのしがらみに回帰するはずがない。「家」などと言うくだらない概念で自分を縛り付ける必要がなくなったのだ。「家」が家に戻った、それだけのことだ。