差別

 本来なら嬉しそうに人選を始めるのだが、その日に限ってなぜか行動を起こさない。その代わり数人が寄ってきて同じように「オトウサン サミシイ」と言った。その言葉が必ずしも正しい表現ではないことは、理由を教えてもらった後に分かった。日本語に精通していたら、いや日本人なら「空しい」だろうか。一連の説明を聞いて僕の口から出た言葉は「悔しい」だったのだが。  今度の日曜日、玉野教会ですき焼きパーティーがあり、かの国の青年達を招いてくれた。車で連れて行ける人数分の募集をかけに寮を訪ねたのだが、冒頭のようになぜか気乗りしない様子だった。従来なら、誰かが中心になり、公平に人選をしてくれるのだが反応がいたって鈍かった。それはそうだろう、いわゆる泥棒呼ばわりされたのだから。それも会社に直接「野菜を畑から盗んだ」と通報されたらしい。  新しい寮に引っ越したばかりで、そこの地は彼女達は初めてだ。当然受け入れる地区の人たちも初めてだ。だから先入観で、玄関先のダンボールに積み重ねていた大きな白菜を盗んだと思ったのだろうか。段ボール箱一杯盗んだと通報されたのだから。ところが僕はよく知っている。かつて3箇所寮を借り上げ引っ越しているが、そのつど近所の人から好感を覚えられ、特にお百姓の家の近くのときは野菜の差し入れがとても多かった。僕なんかその差し入れのおこぼれをしばしば頂戴した。このあたりの農家が野菜をくれるときはそれこそ大量にくれる。少しばかり上げるのは気が引けるのか、頂くほうにとっては市場に出荷したらと言いたいくらいくれる。だからかの国の青年達の寮にあふれんばかりの野菜があるのは、よく見かけた光景なのだ。何も確かめることなく通報した人間の了見の狭さを哀れに思うが、傷つけっぱなし、傷つけられっぱなしは何とも悔しい。的を射た表現方法を知らずに訴えてくる彼女達が哀れだ。  この1ヶ月、僕は奈良に住む青年、この冬日本にやって来た青年、そして牛窓にいる青年達から同じような内容の話を聞いた。日本語に堪能な青年は「差別」と言う言葉を使い訴えてきた。この国の人はそれが得意で代々染み付いているという説明をしながら、ひたすら謝った。特に最近はこの国の人間の多くが、中流からやっと暮らせる層に追いやられ固定されているから、望まなくても吐け口を求めてしまう。弱い人の特性で、より弱い人を作ってしまいそれを攻撃する。自分をそこに追いやった人間を攻撃して、社会を自分達に適したように変えればいいのに、その選択肢をとった人を僕は見たことがない。  国に帰ればごくごく普通の幸せな青年達を、泥棒呼ばわりできるほどこの国は、豊かで善意に満ちた国ではない。