その夜、早速夢を見るのだからよほど印象が強かったのだろう。  確かに、車で近づくにつれ、どこかで見た光景だと感じた。山の谷に向かってくねくねと曲がった狭い舗装道路を登っていくにつれ、嘗て僕が幼少期を過ごし、その後何十年と訪ね続けている母の里とそっくりなことに気がついた。周りには広い庭、大きな木、納屋、耕運機と言った同じ素材を持つ農家が点在し、2つの牛舎も見えた。おまけに小さな池が集落の真ん中にあり、小川が舗装道路に並行して流れている姿など、まるで作られた模型のように似ていた。そして目的の家を探しあてて庭に車を止め、玄関の戸を開けたときに、驚きのピークに達した。 「同じ」、嘗て50年以上前に僕が預けられ多くの時間を過ごした母の実家とそっくりなのだ。入ってすぐに広い土間があり、結構高い座敷があり、その奥はふすまで幾部屋かに仕切られ、縁側が長く続いていてその行き当たりにトイレがある。台所からは納屋に降りていける。広い庭には農作業で使われるトラクターや農機具が無造作に置かれ、広い庭は手入れが行き届いていない。恐らく大家は結構な年齢に達しているのだろう。だからかの国の青年達に寮として貸しているのだと思う。  牛窓工場のかの国の青年達が、赤坂工場の同郷の友に会いたいと言う希望をかなえる為にアッシー君をしたのだが、僕も歓待され、手料理が山のように用意されているのを見つけた。ただ哀しいかな僕はその手料理をかなり苦手としているので、母の見舞いを口実に昼食時間を避けるように退散した。そして午後、もう宴は終わっているだろうと言う時間を見計らって、南部の玉野から又北上して迎えにいったのだが、なんと僕の分だけ料理を残してくれていた。折角の好意だから、出してくれた数種類の料理全てに義理箸をつけた。そしてその時に昨日書いたように、心臓病に蜂蜜と何かを混ぜただけのものを薬の代わりに飲ませたという衝撃的な事実を知った。かの国の青年達の友として、又薬剤師としてとても辛かった。死ななくても良い人が、みすみす命を落としてしまう理不尽を恨んだ。そしてその理不尽にも負けず、日本語を勉強し、遠い異国の地に仕事を見つけた青年のけなげさに感動した。  その後、工場を案内してあげると通訳の女性が散歩に連れ出してくれた。そしてその道中のこと、同じような道を、わずか数歳の幼き日の僕が歩いていた姿を想像した。そのくらい、景色は勿論、空気や風や音や香が似ていたのだ。坂道を数分歩くと人工的に切り開いた広い場所に出て、いくつかの大きな工場が見えた。工場団地だ。さっきまでの景色と全く違う景色が一気に広がる。そこに工場群がある必然性を全く感じなかった。道中であった数人の地元の人たちとの接点も全く感じなかった。「ワシ等にとってはただの侵入者だ」のどかな景色が僕にそう言った。  家の前の広場で夜祭が行われ、一人で家に帰った僕は縁側の戸が開いていることに気がついた。誰かが侵入したのではないかと心配になり、ガラス戸を閉め布団に入った。大人達がまだ帰らないので不安だった。そんな夢の舞台が、正にその日訪ねた赤坂の山間の集落だった。