邪念

クー、クー、クック、クー、クー、クック・・・この鳴き声がわかる人は、田舎を持っている人だ。この鳴き声を懐かしいと思う人は田舎で育った人だ。 母の里に預けられて育った僕は、毎朝この鳴き声で目を覚ました。その声を聞くたびに自分が預けられていることを悟った。ただ、決してそれは悲しいことではなく、優しい祖父母やおばに大切にされて、幸せな日々だった。ほとんど記憶の断片しか思い出せないが、思い出すのはすべて楽しいことばかりだ。まるで映画に出てくるような田舎の風景にいつも包まれていて、邪念一つなく生活できた稀有な日々だ。 その鳴き声に僕はこのところ、何十年ぶりに遭遇している。最初は誰かが鳩を放ったのかなと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。一羽の鳩が、頭上の電線に止まり例の鳴き声を披露してくれる。朝の5時は十分明るいが、人はまだ通らないし車も少ない。鳩も安心するのか、駐車場の電線の上に止まり懐かしい声を聞かせてくれる。僕は見上げて鳩がひとしきり鳴いてやむまで耳をそばだてる。鳩はまるで僕のアンコールに応えるように、なかなか飛び立たない。まさか気持ちが通じることはないだろうが、毎朝楽しみな時間だ。 母の里に比べれば当時の牛窓はかなり賑わっていた。山鳩の鳴き声で目を覚ますような風情はなかった。それがこのところの鳴き声は、牛窓が当時の母の里のように自然回帰している証拠のような気がする。開発の波に遅れたといえば負のイメージだが、いまさら開発が何かよいものをもたらすと言う保証はない。むしろ、自然はもとより人の心の持ちようまで破壊してしまうような気がする。まるで根こそぎ壊してしまいそうな危うさすら感じる。発展がすべてに優先する時代はもう終わった。僕の知り合いがいつか言ったように「牛窓は取り残されたぶん残すべきものが残っている」ことに感謝しなければならない時代が来ようとしている。 山鳩の鳴き声で目が覚める町。朝が待ちどうしい。