広報誌

 あるジャーナリストが日本の新聞は「広報誌」だと言っていた。お上の言うことを検証するわけでもなく、ただ垂れ流すだけだからだそうだ。外国の新聞記事は文章の書き手の個人名が出るらしいが、日本では会社の意向に背くことが出来ないらしく、正義より、真実より、広告主の意向を反映するらしい。だから放射能のことでは何ら政府や東電を非難しないし、影響を小さく見せることばかりに腐心している。  さもありなんと思っているころに、首都圏に住み、首都圏で働いている親類がひょこり訪ねてきてくれた。名前を出せば誰もが知っている大きな会社で、責任ある立場で働いているみたいだが、新聞やテレビでは知ることが出来ないかの地の生身の日常を教えてくれた。震度5くらいでは驚かないと言うかの地の人達の地震に対する免疫には驚いたが、いざその時に生きておれるかどうかと言う、博打みたいな無常観にも驚いた。驚くことはまだあって、絆云々ととってつけたようなかけ声とは裏腹に、企業などはしっかりと事務所を西日本に移しているらしい。もっと遠く外国に移転する流れもすでに出来上がっている。知らないのは庶民ばかりで、復興という名の殺し文句に精神まで束縛されている。情報を持っている人達はしっかりと財産や自分の命を守っているのに、何も知らない純朴な人達ほど、汚染された地に暮らし、汚染されたものを食べ、汚染された支配者の思うとおりに心も体も蝕みながら生きている。  僕らは枯れた枝にしがみついているようなものだ。福島の4号機がもし余震で崩れ落ちたら、枝が折れて川の中に落ちてしまう。この国のあれ以降は、毎日が綱渡りならぬ枯れた枝渡りなのだ。誰もあの事故の責任をとらない、問われない中でもしあれを上回る事故が次に起きても、誰一人刑務所に入らないのだろうか。たった数万円寸借詐欺をした僕の幼友達は今塀の中なのに。