葉書

 葉書には格好良くギターを抱えている姿がモノクロで写っている。歌手の名前を聞いてすぐに誰だかわかった。昔、薬局の2階でライブをしたことがある九州出身の歌手だ。もう何十年たったのか分からないが、ああ、あの時の青年が今こんなになっているんだと感慨深かった。彼より少しだけ年上の僕が、今こうなっているのだから自然の摂理は誰にでも公平にはたらいているものだ。  2月にライブを行いますとその葉書を持ってきてくれたのは、牛窓でカフェを開いている人だ。面識はないが、その人の知り合いが僕の知り合いだと言うことで、コンサートを聴きに来てくれるように僕の知り合いに連絡して欲しいとのことだった。嘗てその歌手が牛窓で世話になったと言うことで、連絡を頼んだらしいのだが、当時僕も知り合いも彼に良い印象は持っていなかったと記憶している。でも勿論それは若いときの印象だから、その後どれだけ人間的に成長しているか僕らには分からない。案内の葉書には、Peaceful Feeling Tourとタイトルが付けられ、福島県を拠点に活躍していると説明が付けられていた。よりによって福島県まで流れていっていたのかと言うのが僕の印象だが、そこの県に住んでいたからこそ唄える歌が彼には今あるのかもしれない。  そのカフェは自転車でも行けそうなところにある。今にも倒れそうな家を借りて、僕の友人が牛窓に流れてきた頃借りていて、若かった僕は毎晩のように遊びに行っていた。よそから流れてきた人が集まるボロ屋だった。そこが今、小さな文化の発信地になっているみたいだが、この町の風情にとても同化している。異質の同化だからこその魅力でわざわざ遠くから訪ねてきてくれる人がいるのだろう。  そうしたところで、ブルースっぽい弾き語りが聴けるなんて、当時の僕だったら、胸躍らせるだろう。ところが今日の僕のクールさには、嘗ての片鱗はない。聴きたいと思わないのだ。年と共に感受性や好奇心が衰えたことを差し引いても、聴きたいという欲求が起こらない理由が、葉書で案内を受けている最中に分かった。僕には、唄の限界が分かりすぎるくらい分かるのだ。文章や演劇やその他の芸術に於いても、毎日無垢で無脚色の多くの名もなき作品そのものと接し続けて30年が、邪魔してしまうのだ。僕の薬局が田舎にあるが故か分からないが、都市部から来てくれた人でさえ心を開いて多くを語ってくれるから、何万もの生き様そのものの作品を見続けて来れた。それらの生き様を数分の唄で越えられるとは思わないのだ。作品へと昇華させた感性に胸打たれることは勿論今の僕にもあるが、知識も経験も乏しかった当時の僕とは違う。何重にも書き潰した跡に走らされる筆の感激は、白紙のキャンパスに大胆な筆を走らされる感激には、数倍も数十倍も及ばないのだ。僕はそれに無意識のうちに気がついていた。だから自然にそれらのものと遠ざかって来れたのだと思う。  色々な芸術や文学に触れなければ、心豊かに生きることは出来ないのかもしれないが、もし芸術以上のものが、日々の生活の中で営まれているとしたら、そうした前提に縛られる必要はないと思う。それだけ普通の人が暮らす田舎が僕にとっては愛おしいのだ。