お礼

 その小さな教会での数年間は全てこの棺桶の中で眠っている老人から始まった。90歳を越えていると聞いて、にわかには信じられなかった。ふくよかな顔、ふっくらとした体型、それに何よりもみずみずしい顔の艶、その全てが少なくとも10歳は若く見せていた。ところが棺桶の中から覗くその顔は最後に見かけたときからはずいぶんとしまっていて凛としているように見えた。まるで97年生きた証を誇っているようだった。 数年前に初めてその教会を訪れたとき、偶然腰掛けた椅子がその老人の隣だったのだ。小さな教会だから当然僕が初めての来訪者だってことは分かる。僕が他の教会の30年の潜りだとは知るよしもないから、老人はいちいち儀式の進行具合を教えてくれた。今典礼というものの何処を読んでいるか、聖歌の何処を歌っているか、立ち上がるタイミング、腰掛けるタイミング、全てを丁寧に教えてくれた。ほとんどのことは分かっていた僕だが、初めて訪れた教会と言うことでぎこちなさは見抜かれていたのかもしれない。30年潜りだった岡山教会は大きな教会だったが、その間に誰からも話しかけられるようなことはなかった。その老人の過剰な親切に若干戸惑ったが、30年間、退屈な儀式と思っていたものに少しばかりの親近感を持てた。  老人はその時僕をどの様に感じて親切にしてくれたのだろう。会社をリストラされたサラリーマンか、借金で首が回らなくなった自営業者か、汚職がばれて免職された公務員か、万引きを繰り返す一人暮らしの男やもめか、競輪場ですってんてんになった博打打ちか、公園で寝泊まりする路上生活者か。 通夜の席で神父から故人の簡単な紹介があった。生まれてすぐカトリックの洗礼を受けたのだから、筋金入りのクリスチャンだ。筋金入りだからこそ無理がない。背伸びがない。見え透いた信仰心を振りまいて陶酔している輩とは決定的に謙虚さが違う。小さな教会にこの老人を筆頭に長崎出身の家庭がいくつかあったが、どの家庭も僕ら中途洗礼者には決して越えることが出来ない肌に染みついた信仰があった。頭でっかちの信仰が所詮我欲に過ぎない例は一杯見せつけられた。  今日僕は、居心地の悪さを感じて離れていた小さな教会に老人にお礼を言いたくて久し振りに入った。痛みを分かち合うことよりも楽しみを追求するばかりの変貌に付いていけなかったのだが、老人の凛とした寝顔のおかげで心安らかに家路につくことが出来た。