鰯雲

 歯の治療の前に「もう秋ですね」と謎かけみたいな言葉を投げかけられたから一瞬答えに困った。やっと蝉が鳴き始めて夏本番を迎えたような気分になっていたのに、もう秋が始まっているなんて。歯科医は治療前に「もう鰯雲が出ていますよ」と言った。鱗雲が秋の季語とはしらないものだから歯科医の博学をまたまた見直したが、あちらが博学ではなくてこちらが浅学なのだろう。  昨日そんな会話をしていて今朝テニスコートに行ったら、空の半分をまさに鱗が被っていた。確かに秋は着々と来ているのだ。あの歯医者さんはちゃんと空を見ているのだ。見上げて季節を感じているのだ。人それぞれの感性を愛おしく思えるようになった自分の変化に残念ながら人生の秋を重ねた。  と言いながら今日は童心に帰った。テニスコートに珍しくボールが散乱していたので、歩きながらボールを拾っては夜間照明灯の電柱に向かって投げつけた。最初は肩の運動にでもなるかと思って何となく柱に向かって投げていたのだが、途中から柱に命中させたくなった。幼いときに何かの的(海に浮かんでいるものや、運動場に並べた缶など)に向かって投げていたのと同じだ。最初はなかなかあたらなかったが、そのうち命中するようになった。距離も離してなるべく遠くから投げるようにもしてみた。まだまだ出来るではないのと思ったが、このところ投げ続けていたのは匙ばかりだから、筋肉の衰えは隠せなくてボールに勢いはない。  ひ弱い肩で一石を投じて水面にさざ波さえ起こすことが出来なかったある所のある人から昨夜、帰ってきてと電話をもらった。その人以上にその場所が似合う人を知らないのだが、そんな人に限って窒息しそうになっている。同じ理由でいち早く窒息した僕が、とどめを刺されることを前提に帰る新たな動機は見つからない。今更身投げして大波を起こしてもサーフボードをこぎ出す人はいない。