表現

 遺族は「原発に殺された」と悔しさを募らせる。 ついにこういった事態が現れ始めた。これは最初の一歩でしかないだろう。こういった災害時には最初力が入って興奮状態になるから何でも乗り切ることが出来るが、ある程度時間がたてば物事を客観視し始め、再起の難しさが大きな壁となって現れてくる。乗り切るか、力つきるか、個性の問題に加えて失ったものの大きさに左右されるのではないか。部外者の威勢のいい応援歌は、歌う方の自己満足になりがちで、耳を塞ぎたい人達にまで届いてしまう可能性がある。  さて冒頭の記事には違和感がある。原発に殺されたと表現してしまえば、原発という科学の粋を集めた物、あるいは毎日目にするあの建物に殺されたか、概念としての原子力発電所に殺されたと思ってしまう。正確には「原発に殺された」と言うべきではなく、又書くべきでもなく「原発を地元住民の反対の声を無視してあの土地に持ち込んだ、過去の東電の社長を初めとする幹部社員、それらとつるんだ国会議員、利権をむさぼった県会議員や地方議員、誘致で町を興そうとした誘致派の人達」に殺されたと言うべきだし、書くべきだ。そしてこれからは、後々責任を追及するために今マスコミに出てくる学者や大臣達が言っていることを覚えておくべきだ。彼らが守りたいのは企業であって住民ではないのだから、怒りまで都合のよい法律に縛られないために。凡そ法律で守られるのはそれを作った側であって、それで守られると勘違いした側ではないのだから。