信憑性

 戦争中に劣勢に立っているのに勇ましい戦火ばかりを宣伝していたのに似ている。庶民には真実を知らせないのが為政者の権利とでも思っているのか、朝から晩まで安心の大安売りだ。直ちに健康の被害はないと言う権利が誰に一体あるのだろう。日常の1000倍を超えて、危険かどうかの判断をしてもらう必要はない。普通でなければ異常なのだ。異常に甘んじろと誰が言えるだろう。将来の集団訴訟の防波堤を懸命に会社も国も築いているようにしかみえない。  福島県の避難地域近くで開業していたお医者さんの家族が診療所を一時たたんで岡山県疎開してきたと新聞に載っていた。知識を持っている人の選択だから、この当たり前の判断を参考にすればいい。入れ替わり立ち替わり現れる安全のスポークスマンがわざわざあちらに子や孫を連れて疎開し、そこでとれる野菜を食べ、牛の乳を飲み、水を飲むならまだ考える余地はあるかもしれないが、安全地帯でいくら「心配ない」をくり返されても信じる気持ちにはなれない。公を信頼しすぎては馬鹿を見る。公を信じて何千万人が殺し殺されたのはまだつい最近の出来事だ。  もう何日か前に、ユーチューブである人が福島原発について多くを語っているのを見た。テレビで耳にすることとは全く逆の見方で、今起こっていることに対してかなり悲観的だった。彼は、原子力発電所が能力を失っても、火力発電所で十分カバーできるから、停電を起こしていると言うことは火力発電所も大きな被害を受けているに違いないと言っていた。案の定、今日になって初めてマスメディアが火力発電所の大きな被害を伝えた。一人のノンフィクション作家(広瀬 隆)にマスメディアがよってたかって挑んでも勝てない貧弱さにうんざりする。その程度のものを読んだり見たり聞いたりしなければならないのかと思うと情けなくなる。このことからしても朝から晩まで聞かされる情報の信憑性はかなり低いと思ってもいいのではないか。たった火力発電所一つにも思いが至らなかったのだから。 出来れば悲観論の作家の予想が当たらないのを期待するが、不幸な災害まで政権の延命に使う集団の発信するものはまず疑ってみた方がいい。