乗り物

「口の中にスクーターみたいなのが一杯出来るそうなんです」少し口を開ける格好をして指を横断させた。ご自分の更年期障害が煎じ薬でとても改善したから、同僚が困っているのを相談してくれたのだが、ちょっと意味不明だった。僕の知らない病気なのかと思ったが、そんなに深刻な様子ではない。「しょちゅう出来て痛いらしんです」何も答えなかった僕にたたみかけた。「1週間位したら又次のスクーターが出来るらしいですよ」どうやら病気の名前ではなくて何かの比喩らしい。「口の中でスクーターが走るの?そんなに痛いってこと?」「いえいえ、良くあるでしょう。口の中がえぐれて熱いものがしみて食べれなくなる病気、スクーターみたいな形をしているらしいですよ」「それって、口内炎のことかな」「そうそう口内炎、月の表面にあるくぼみみたいになるらしいですよ、クレーター、あっクレーターでした」クレーターがなんでスクーターになるのか分からないが、上品な奥さんのこのぼけは面白かった。気がついて照れていたが、照れる必要はない。吉本でも通用しそうなぼけだった。穏やかで上品な奥さんだから普段との落差が激しく、2人で大笑いした。これが意図的に作られたものならたいしたものだが、そのことを尋ねた僕に、考えて言ったものではないと答えた。  余りにもくだらない番組が多くて、見る価値もないものばかりのテレビだから、今日もこの女性に軍配は上がる。仕事が終わってテレビを見ていてもくつろげることはほとんどないが、たった一つの素人のぼけに、僕は今日緊張を少しばかりほぐしてもらえた。自分でも何をむきになって日々頑張っているのか分からないのだが、硬直した心と身体は悲鳴を上げている。今日のように声を出して笑うとき全身の筋肉は弛緩し、行き先不明だった副交感神経が顔を出す。圧倒的な戦いの神経の酷使で持っている社会がいつまでも続くはずがない。どんな道具も使わずに人の緊張をほぐしてくれた無意識の作品に今日は感謝。