笑えない話

 食べるものは質はどうでも量さえ満たされていれば良かったのだが、最近はその量さえどうでも良くなったから、それこそ時間が来たから食べる、出されたから食べるくらいなものでほとんど感動はない。考えてみれば食い気なんかいつの間にかなくなっていた。沢山出されれば片づけるように食べるし、少なければそれはそれで何の不足も感じない。ほとんど作業に等しい。もともと美味しいものを求めて努力したこともないし、より沢山食べようと努力したこともない。いたってその事には淡泊だった。  先日もある会席料理屋さんに招待されたが、途中からもういらないと思っていた。少しずつ小刻みに運んでこられるものを几帳面に片づけていたが、途中からはほとんど義務になっていた。美味しいと言うより、お腹に入るのかなの方が関心事になっていた。だからこれが最後ですよと言われたときには正直ほっとした。そこで初めてリラックスしたような笑えない話だ。  恐らく着るものは年1万円以内、外食代も年1万円以内。何十年の収支だ。意図的ではないが世間の常識から言うとすこぶる倹約したことになる。もっとも他の分野では浪費があるから人並みで収まるのだろうが、人並み以下が2分野もあって助かった。質素でも倹約家でもなかったが、とにかく興味がないのだ。だからその分野でいくら倹約しても、劣っていても何ら気にならないのだ。生きていくのにその無頓着はとても楽だった。  こんな文章を考えていたら、車の維持費が生涯3000万円に上るという試算が公表されていた。田舎に住んでいるから、この分野は倹約できなかった。家を建てずに車を所有しなければ結構みんな楽な生活が出来るのだ。コマーシャルにあおられて生涯賃金の多くを持って行かれるのは考え直した方がいい。もっとも若者達はすでに車離れを起こしているから必然的にその懸念はなくなるのかもしれないが。「車も買えない」から「車を買わない」そんな格好いい若者が増えることを願っている。  いったい何を楽しみに生きてきたのと尋ねられて答えるものを僕はもっていない。その日その日を精一杯、こんな僕でも頼ってきてくれる人に応えるために薬局を開いていただけなのだ。役に立てたか立てなかったかは確率に任せるとして、何時行っても開いている薬局にしておきたかっただけなのだ。そんな日常だったから、財布の中には車の免許証が入れられていただけだ。  今朝季節はずれの雷が数回鳴った。一所懸命生きてきても天に轟く雷一つ起こせない。なにも力むことはない。僕らは風景の中の一片の風にもなれないのだから。