無料

 何が不愉快かと言って最近のテレビコマーシャルのこの2点は突出している。  一つは、無料とうたった携帯電話によるゲーム。どうして会社は利益を出すのだろうと不思議だったが、通話料で稼げたりゲームがエキサイトしてくると得点をお金で買う仕組みらしい。架空の世界で何を買うのかと思うが、詳しいことは分からない。それでもお金はがっぽり入るシステムで、その社長がインタビューに答えて、仲間内で遊びでやっていたことを延長しただけみたいなことを言っていた。今をときめく新進気鋭のとマスコミははやし立てるが、要はオタクの延長だ。オタクが一念発起して企業化したからもてはやされているだけで、無料をうたいながらのめり込んだ人からお金をせしめるのは頂けない。 もう一つは、中年の芸人を使って、ゲームに誘うコマーシャル。若者世代だけではやっていけなくなったのか、それとも経済的に余裕のある層を狙い始めたのか。馬鹿なせりふを馬鹿なタレントに言わせているが、世も末と思ってしまう。あちこちで携帯電話に夢中な光景に出くわすが、その中の多くがそんなことをしているのかと思うとぞっとする。目を上げれば社会を構成している多様な人達がいるのに、遊ぶ段取りをしてもらって、その人の手のひらの上だけが世界ではもったいない。  その人達が何次産業に属するのか知らないが、一次で働く人達の汗や筋肉痛は分かるまい。足を机の上に上げ、卓球をしながらアイデアを浮かべるのが仕事らしいから、空調の中で季節もとんぼ返りをするだろう。遊びを創造する人が悪いのではない。ただあまりにも汗して働く人達にスポットライトがあたらないのだ。カードをかざすだけで、稲が穂を出し、野菜が育つのではない。湾曲した足で、折り曲がった腰で育てたものだ。命を養うのに命を燃やしたあげくだ。 命を育み、治水し、人の心までたおやかにする、どうしてもっとお礼を言わないのだろう。どうして値切るのだろう。何かが欠け落ちている、そう感じて仕方ない。