手間暇

 ゴミ収集のビンの日は肩身が狭い。10数軒が同じ集積所に出すのだが、9割がたはうちの物だ。僕も含めて家族がドリンク剤が好きなのもあるが、患者さんがカゼ薬などと一緒に飲んで帰るものも含まれていて、上記のような割合になる。その代わり、缶類の日は威張っておれる。我が家が出すのは一つか二つしかないから。毎日曜日車で玉野まで行くが、道中睡魔に襲われたときに自動販売機でコーヒーを買って飲むくらいで、真夏のビールも止めたから日常缶で買って飲まなければならないような物はない。ビン類で迷惑をかけている分、缶類で許してもらえたらと思う。 コーヒーにしたって、ジュースにしたって、ビールにしたって、お茶にしたって、そして薬にしたって、どう見ても中身より器の方が高いように見えて仕方ない。もっとも一番高いのは人件費だろうが、流通経費などを差し引くといったいどのくらいの原価の物を頂いているのか想像がつかなくなる。ひょっとしたら僕たちは僅か10円くらいの材料費の物を喜んで頂いているのではないか。 いやいやよく考えてみたら、原価ってほとんど無料の物ばかりだ。石油にしたって、石炭にしたって、水にしたって、植物にしたって、魚だって、動物だって、本来地球に備わっている物だ。人間が作ったものではない。そもそも最初からあるものを、手間暇かけて値段を積み重ねているだけだ。何かとんでもない人類の叡智のように見えるが、種をあかせば人間が無断借用しているだけなのだ。いや、盗んでいると言ってもいいかもしれない。寛大な地球から盗んでいるのだ。ひたすら消費だけで返すことを知らない人間の暴挙だ。  それでエコだとか循環型だとか盗人猛々しいとはこのことだ。100奪って1返してそれで許されるなら地球の逆襲も始まらないだろう。でも恐らくもう逆襲は始まっている。不可思議な人の行動など十分脳の中に化学物質の侵入を許している。異物を受け入れないところに侵入を許した報いがもう身の回りで起こっている。  本来的には物に値段はないのだ。手間暇に対する評価が値段なのだ。こんな事に思いが至るとますます物が欲しくなくなる。地球から奪って狭い部屋を尚狭くする必要はない。何もない豊かさ、青春時代の美学はいつ僕の心の中で置き去りにされたのだろう。