取材

 僕に頼んでくるくらいだから、もう一巡してしまったのだろう。僕もそのメーカーの雑誌は愛読しているのだが、今まで年余に渡り取り上げられてきた薬局は実力があるところばかりだ。載せるべき薬局が尽きて、ほとほと困ったのだろうと言うと、ハッキリとそうですと彼は答えた。彼の予想に反して僕は即座に快諾した。僕はそのコーナーに載ることより彼の依頼を断る方に抵抗があった。人にものを頼むのは結構、やむにやまれぬ場合が多いから出来ることなら協力したい。  漢方雑誌の薬局紹介コーナーなのだが、僕が彼に「会社にとって都合のいいことは喋らないよ」と言うと「私がいいように書き直します」と笑いながら答えた。僕の所に彼が来て恐らく得るものはない。彼の帳面が一つ消せること以外は。ただ僕には言いたいことがある。折角漢方メーカーの雑誌なのだから、僕と同じように家業として孤軍奮闘している同業者にエールを送りたいのだ。僕らが日常目にし耳にするものはほとんど冒頭のような立派な薬局や薬剤師ばかりで、能力や立地や規模や、もっと端的に言えば客層が断然違う。僕は漢方薬が裕福な人達のものになってはいけないと常々思っている。誰もが漢方薬が適しているトラブルに陥ったときは、最低日数で治らなければならないと思っている。病院でもドラッグでも治らない人は一杯いる。そんな時、最終的に頼りになるのは漢方薬が分かる薬局だと思っている。そんな砦が、経済を極端に志向してはいけない。  メーカーが主催する勉強会はどこに行っても、よく売る薬局が評価される。経済行為だから当然かもしれないが、果たしてそれで本当の職業的満足は得られるのだろうか。満足を数字で換算するなら空しさだけが残ってしまう。不調が改善したときにふと漏らす笑みに優る報酬はない。「お金には換えられない喜び」をお金に換える愚かな風潮に組みすることは出来ない。  僕を漢方の世界に引き入れてくれた恩人二人は若くしてもうこの世を去ったが、二人が偶然同じ意味のことを最初に僕に言った。適正な価格と。一人は具体的な数字を上げて上限を決めてくれた。それは単に金額の上限だけではなく、心の上限でもあると今は思っている。僕は決して彼らを越えない。彼らの時間は止まっても僕は越えない。それで謙遜が職業的にも保たれるなら僕は越えない。  立ったままでも、笑いっぱなしでも処方は決まる。ジーパン姿でも、汚れた白衣でも病気を治すことは出来る。月曜日、僕のどの部分が果たして彼の眼鏡にかなうのか分からないが、恐らくほとんど全部を創作してくれるのだろう。いっそのこと僕の顔の部分を福山雅治に変えておいてもらおうか。