打楽器

 たわいもないありふれた会話の中からとんでもない発見が生まれることがある。中学校の時からわだかまっていたものが一瞬にして吹き飛んだ。その結果、今まで許せないでいた先生を許すことが出来た。他人から言わせればなんでもないことなのだが、本人にとっては結構後を引いていたことなのだ。40年ぶりの解決になる。  中学校のブラスバンド部に、成績がよいからと言うわけも分からない理由で入らされた。当時はそんなことが許されていたのか、余程その先生が力を持っていたのか分からないが、毎年新入生を成績順に良い方からブラスバンド部に入れていた。ある日音楽室に呼ばれて、うむも言わさず入らされた。勿論僕だけではない。その先生が牛窓中学にいた間はずっと行われていた暗黙の儀式だ。別に音楽が好きではなかったが、NOと言える根拠もなりたての中学生には思いつかなかったらしくて、それに従った。その上不運にも、体格がいいという理由だけでトローンボーンの担当にならされた。当時のブラスバンド部は運動会の行進曲ばかりやっていたから、トロンボーンは後打ちと言って、ほとんどリズムを取る楽器になっていた。3年間、メロディーを吹いた記憶がない。ウンパッ、ウンパッって、まるでリズム楽器だ。そのあまりにおもしろみの無さ故に僕は中学を卒業してから楽器はすぐに止めた。音楽も好きにはならなかった。ただ、トランペットやサクソフォーンと言った、一生楽しめるような楽器をさせて貰えなかったことだけが悔やまれた。 先日鍼の先生とあることからその話になって、彼がひょっとしたらその過去はよかったのではないかと意外なことを言った。僕に同調してくれるのかと思ったら全く異なった視点から彼は評価した。トロンボーンでリズムを刻み続けたことが大学に入ってから始めたフォークソングに良い影響をもたらしたというのだ。僕はもっぱらギターをかき鳴らして語るように叫ぶように唄っていたから、綺麗なアルペジオなどは出来もしなかったし、必要もなかった。ただメッセージが伝わることだけを考えていた。だから基本的には自分で作った唄ばかり歌っていた。勿論ド素人の域を出ないのだが、当時はそれを許して貰える土壌があった。多くの若者が歌詞から唄に入っていた時代だったから。僕は恐らく歌詞をメロディーに乗せていたのではなく、リズムに乗せていたのだと思った。彼の一言で、その事がハッキリと分かった。僕にとってはギターも打楽器だったのだ。  そうしてみると最近フィリピンの人達と唄うときに、僕のギター伴奏が唄いやすいと言ってくれる理由が理解できる。彼らが外国人だから、父親みたいな年齢の僕にお世辞を言ってくれているのかと思っていたが、確かに唄いやすいのかもしれない。フィリピンの若者で僕の数倍も綺麗なギターの弾き方をする男性が今一緒にやっているが、彼のは静かに聴くにはいいが、歌の伴奏としては上品すぎるのかもしれない。嘗てみたいにボーカルではないから、如何に彼らが楽しく歌えるかを考えて伴奏しているが、いみじくも最近僕はギターを叩いていると感じていたのだ。まるで打楽器のように、ひょっとしたら和太鼓のように叩いて伴奏をしていると感じていたのだ。その方が僕自身も楽しいし、フィリピンの人達も乗って唄ってくれる。ひょっとしたら嘗てよりギターが上手になっているのではないかと錯覚してしまいそうなくらい、僕も又彼らの唄に乗らされている。  この気付きはまさに青天の霹靂だ。そして人を恨むという自分自身でも不愉快な心模様を一つ捨てれたことに感謝する。もっとも後100人はいるから空くらいでは足りなくて、銀河の霹靂規模でないと僕の心は清くはなれないが。