無頓着

 もし何が僕の生き方を助けてきたかと問われれば、文句なしで優越感に対して何の価値も持たなかったことと答えるだろう。何かを多く持っているとか、何かを備えているとか、何かに恵まれているとか、他人の評価に全く無頓着なところだろう。こんなことを言うと何か優れているところを持ち合わせているのかと逆に問われるかもしれないが、一般論としての話だ。 誰にだって長所はあるし、持って生まれた強運もある。ただ突出した幸運に恵まれなくても、相対的には誰だって優越感に浸る状況は日常的に起こりうる。それは全く内面的な心模様であるはずだが、えてして表情や行動に表れてしまう。その表情や行動、もしくは言動から起こりうる他者との軋轢で失うものは、それが見えない価値観だから余計なのだが、大きすぎる。失ったもの、失うものに元々価値をおかないような人間がその様な価値観に浸るのだろうから、失うことに警告しても仕方ないが、余りにも人間としてもったいなさ過ぎる。何故なら、生活していく上での心地よさなんてものは、ほとんど日常的に繰り返されるたわいもない仕草や言葉によるのだから。何気ない挨拶や、何気ない心配り、何気ない笑いがあれば日常は楽園だ。逆に、それらがなかったとしたら、例えば、多くの人がへつらい、多くの物を持ち見せびらかしても、何の良い心の交流も起こらない。心と心が通わないものに何の価値があるだろう。 作為はなくても、出来れば人を傷つけずに暮らしたいものだ。いたずらに人に優らず、人に劣らず、ほどほどでいい。いくら頑張ったって、富士山も琵琶湖も自分のものには出来ないのだから。せめて目の前にいるごく普通の人の、一瞬のいい顔を盗めたらそれでいい。