合掌

 特別養護老人ホームに於ける医師の回診について行っている娘が、ある部屋に入っていった時、一人の老婆が壁に向かってなにやらブツブツ言っていたらしい。最初、意味不明の言葉に聞こえたらしいが、耳を近づけると言葉の意味が分かった。「○○の神様、どうか私の痒いのを治して下さい」と繰り返しお願いしているのだ。このようなホームに入る人は、健康では入れない。精神か肉体を患っていないと入れない。その老婆も痴呆が進んでいるらしいが、体調の不良は本人もハッキリと認識しているみたいだ。内科専門の主治医では手に負えないから、職員に付き添われて皮膚科を数日前受診した。その薬は娘が作っているから僕も老婆の辛さが理解できる。皮膚病の中では難しいだろうなと想像できるが、患者としては1分でも早い苦痛からの解放を求めるだろう。当たり前の話だ。神様の力にすがりたいのも当然だ。僕は娘の話を聞いていて悲しくなった。 僕は老婆の壁に向かって祈る姿を目撃していないから全てを理解できないが、逆にそれだからこそ、老婆の不安な心の中が伝わってくる。死とかなり近い位置にいても、頭が少し働きにくくなっても、痒みも、痛みも若い人と同じように感じ、不安も若い人と同じように湧いてくると思う。死が近いことは、それらを軽減させる理由には決してならないだろう。死は怖いもので、痒み、痛みは辛いもの。さらに言うと、施設は寂しいもの、家族は恋しいもの、冬は寒く、夏は暑いものではないだろうか。老いて孤独を享受しなければならない理由はなく、老いてぞんざいに扱われる謂われもない。若い患者と同じくらいの真剣さで治して欲しいと訴えるのをはばかる老いは哀れだ。  立場上介入できることは何もないが、1日1回でも笑っているだろうかとか、希望は聞いてもらえているのだろうかとか、我慢して耐えていることはないだろうとか考えてしまう。善意の雨が乾いた大地を潤わし、合掌する老婆の心を砂塵のように舞い上がらせませぬように。