滑空

 歩きながら何の気もなしに上を向いたのだ。星もない暗い夜だったから、空を見上げる理由もない。何も見えないのだから。ところが何故か僕は見上げた。するとジャンプすると手が届きそうな辺りを大きな鳥が滑空していった。まさに滑空だった。音もなく、ただ大きく羽を広げた鳥の腹が僕の頭上を通り過ぎた。まるで空気の上を滑っているようだった。鳥の腹も羽もネズミ色に見えた。昼間だったら何色に見えたのか分からないが、色彩を失った闇の中でも存在までは消すことが出来なかったようだ。  気配などと言うものはなかった。羽ばたきでもすれば分かるのだろうが、それもなかった。僕は急を襲われたように身構えたが、鳥は悠々とそのまま滑って闇の中に消えた。浅はかだが、僕は鳥が夜に飛ぶなんて知らなかった。鳥は夜は目が見えないとばかり思っていたから飛ぶはずがないと何故か決めつけていた。あの大きな鳥は何だったのだろうと、調べるうちに、実は鳥も夜に見えるって事を知った。見えない鳥も実際にいるがごく僅からしい。  あの鳥は、どこから何処に飛んでいたのだろう。何のために飛んでいたのだろう。外敵がいないから自由なのか。あるいは忍ぶように飛んでいたのか。夜陰にまぎれて徘徊する男と、夜陰にまぎれて飛ぶ鳥が、一瞬だけ交錯しそうになったとるに足らない出来事だが、そんなとるに足らない連続に心が動かされるのも又、凡人の人生なのかもしれない。果たして人生のどの部分を抽出すればとるに足る生き様が浮かび上がってくるのか分からないが、圧倒的に非生産的な時間に占有されていた事だけは確かで、その辺りが凡人の凡人たる所以かもしれない。 世間を滑空する鳥のようにはなれなかったが、這いつくばる手足だけは持っていた。何かを成すべきの人生が、何も残せない人生で終わろうとも、惜しむほどの価値はない。