ホームレス

 1時間半の間、彼らはじっと手を合わせていた。何を祈っているのか分からないが、そのひたむきさは僕の比ではない。多くを失った人達だから祈らずにはおれないのかもしれない。その傍で、何も失っていない僕が、同じような仕草をし、心の中でもっともっとと多くを欲しがっているのが余りにも醜く思えて、その場所にいる権利があるのだろうかと自問した。 まるで老人のように見えるが、ひょっとしたら僕と年齢が近いのではないかと思える男性が、外に出た。僕はある用事で少し遅れて同じく席を立ったのだが、玄関で彼が座り込んでいるのを見つけた。今まで会話をしたことはなかったのだが、その後悔もあって声をかけた。すると男性は、体が痛くてじっと腰をかけておれないと教えてくれた。毎回彼は席を立っていたが、初めてその理由が分かった。肩も腰も膝も痛いのだそうだ。関節に水が溜まっていると言っていた。訳を知らない人達からしたら、我慢の足りない人に思われるかも知れないが、実はそうした苦痛に耐えて寧ろ頑張っている人だったのだ。もし彼が薬局に相談に来たのなら、僕は知恵を絞って、症状を軽くするために懸命の努力するだろう。それなのに、僕はただ彼の苦痛を単に医学的に理解し、よく働いてきたんでしょうねと慰めの言葉をかけることしかしなかった。そして自分の席に戻り欲深い祈りを再開した。  いつになったら僕は自分の時間を人のために使うことが出来るようになるのだろう。30代、40代とサッカーやバレーボールのコーチをしてきたが、あれはあくまで自分の趣味の延長だった。人のためではない。自分や家族の経済のためだけに働いて、子供が巣立ってからもまだ経済だけを追っているのだろうか。腰をかけることが30分が限界の人を前にして、何も出来ない、何もしない人間のままで終わってしまうのだろうか。 どんな苦痛が人をそこまで老いさせるのだろう。失っていないものを数えるのに片手ですみそうな人達が、ある善意の人達の手で、失ったものを少しずつ取り返そうとしている。失われた時間が善意の時間で満たされる様を、僕は絶望的な自己嫌悪の中で眺めている。