飯台

 飯台の上に湯飲み茶碗が置いてあった。お父さんが何かの拍子にこぼしてしまった。お父さんは「ごめんごめん」と謝るが、お母さんは「わたしが隅の方に置いていたから悪いんです」と謝った。その様子を見ていたおばあさんが「隅の方にあったから危ないなと思っていたのに言わなかった私が悪いんです」と謝った。  この家庭に何が起こるのだろう。何かが壊れると言うようなことは想像しにくい。助け合って幸せな家庭をいつまでも保つ以外に破壊的なことは想像しにくい。では、この逆はどうだろう。自分の失敗を相手のせいにしてひたすら責める。誰かのせいにして、何かのせいにして自分を守っているのだろうが、それは本当は守っていることとはほど遠い。多くを失っているのだ。見え透いた言動は完全に読まれている。何も言ってはくれないから、本人は気がつかないだろうが、気がついたら周りに人はいなくなっている。崩壊の道程しか待っていない。  どうも僕が若い頃付き合っていた人で(牛窓に帰ってから)今だ幸せそうに見える人はいない。音楽や祭り、スポーツと色々やったが、その中で特に気があった人のほとんどは離婚し、酒に溺れ、博打にのめり込み、家族も財産も全て失っている。形相は変わってしまい、嘗てこの町の未来を語り合った面影は全くない。離婚も酒も賭け事も決して悪いことではなくそこから新たな展開も多いのだろうが、これらのものが重なるように襲ってくるとなかなか生産的な人生とはならないようだ。  年の瀬の夜のバイパスを走る大型車は極端に少ない。岡山から今あっという間に帰ってきた。不況で運ぶものがないのか、静かな夜だ。人口が減少に転じて国は活力を失うのかもしれないが、静かで過ごしやすい日々が来るなら、人口が減るのは歓迎だ。ものを所有することが幸せで、それが目的化していた時代の人間が退場し、少しは感謝とか、謙遜とかの心に重きを置く人達が増えれば、帰る道を忘れたカラス達も、凍った月の光の中でブルースハーモニカを吹くだろう。