飢え

 僕とほとんど同じ世代の女性が、「あの頃の学生は今と違って良かったような気がする」と言った。何となくニュアンスで言わんとすることが分かるので「そうですね」と同調したが、実際にはどうか分からない。ただ、「あの頃の方が、学生には良かったような気がする」ともし言われたなら、確信を持って「そうです」と答えただろう。  戦後の混乱から立ち直っていたから実際には僕らは食べ物の飢えを知らない。質素だけれど、食べれないことはなかった。運がよいことに、次第に豊かな食生活も経験できるようになった。食べ物だけではなく、交通手段、衣服、日常の諸々のもの全てが便利に開発され、手に入った。一つ一つの便利に導かれるようにみんなが豊になった。  現代は、僕らが一つずつ目撃し、手に入れてきたもの全てが満たされている。何が足りないのか分からないくらいの情報や物に囲まれている。満足からスタートしているから満足を知らない。女性が言うように、あの頃が、現代よりいいとしたら、まだ飢えが残っていたって事だろう。飢えを経験できたことが良かったと思う。特に、精神の飢えは、何よりの活力の源だった。満たされない精神を単行本の中で満たし、拙い言葉に変えて日常に決してはがれないペンキを塗りたくっていた。満たされない精神を埋める物は、飢えた心そのものだったのだ。飢えたから埋めれる心の隙間もあった。  過去形で会話が進んでいく。飢えに飢える日々に実るものは何もない。