一粒の種

 つい最近、韓国で一番えらいキリスト教の聖職者が亡くなったそうだ。その方は、軍事政権の頃、国民の精神的な拠り所だったらしい。87才で亡くなったが、生前から、自分の臓器を移植するように登録していたらしい。 高齢でなくなったので、実際には目しか使えなかったそうだが、目は確かに誰かに光りを与えた。葬儀には信者のみならず多くの人が参列したそうだが、素晴らしいのはその後のことだ。  目が移植されたことが報道されると瞬く間に、100万人の韓国人が同じようにバンクに登録したというのだ。神父様は一粒の種からの例えをひいて話されたが、たった一人の人の影響力のすごさに驚いた。いやいや、たった一人の聖職者もすごいが、感銘した人達の後に続く行動力もすごい。あまり日本などでは経験しないことではないか。冷めていると言えばそれだけだが、一つにまとまりすぎることの怖さを経験しているから、一概に羨ましいとは思わないが、こと善意の行動であればやはり驚きを隠せない。  翻って考えてみれば、僕ら凡人は、道路の向こう側の猫さえ振り向かせられないし、1メートル先の花さえ揺らすことは出来ない。感銘してはせ参じるほどの体力気力もないし、そもそも鼓舞されるほどの美談もない。飽食にて消化不良。空腹を知らないから満たされ方も知らない。知らない方が知ることより優っていると居直ることでしか平静を保てない。