リンカーン

 唐突だが、ほとんどの人は善人だと思う。時々そうでない人と遭遇するから、多くの同類項がいるのかと思いがちだが、それでは世の中持たない。これだけ長い間なんとかこの国も世界も持っているのは、善人がほとんどを占めているからなのだろう。基本的には警戒感なくして外を歩けるし、人とも接触できる。悪人ばかりなら世の中のシステムのほとんどは機能しなくなる。  敵対心を持つのは、それに値する人物が現に目の前にいることよりも、むしろ自分の心の中で作り上げた人物像と敵対している場合の方が多いのではないか。直接何の被害も被ったことはないのに、又面と向かって罵られたわけでもないのに、自分が作り上げたストーリーで勝手に悪意を作り上げている。向こうは悪で、こちらは善という都合の良い位置どりも自分だから許してしまう。雨が降ってきたから小走りになる、冷たい北風に身をすくめる、嬉しいことに一人ほくそ笑む、悲しいことに涙する、辛いことに表情を曇らす、全てその当事者の素直な感情表現なのに、全部自分に対してだと考えてしまう。勝手な評価を下し自分を正当化すれば、どちらが実は善人か分からない。向こうにも守らなければならない家族がいて、守らなければならない信念を持ち、それでいてなお愚直で口べたなのかもしれない。誰もが印象とか状況証拠などで判断してしまいがちだが、自分よりずっとずっと紳士であり淑女であるかもしれないし、自分よりずっとずっと不幸を背負っているかもしれないし、自分よりずっとずっと孤独かもしれない。一つの表情や言動で、全てを推し量れるほど人は薄っぺらではない。現れないところで、表さないところで、とんでもない優しさや謙虚さを持っているものなのだ。  リンカーンには、若い時いつも蔑まれていた弁護士仲間がいた。後にリンカーンが大統領になったとき、その仲間は選挙中リンカーンを大統領にもつ国民は不幸だと反対した。リンカーンは、なんと彼を国務長官に任命した。みんな反対したが彼は「自分は何百回蔑まれてもいい、しかし彼は有能な人物だ」と答えたらしい。この心の広さの何百分の一かでも僕ら凡人に備わらないものか。  勉強会の帰り、あんパン一つ買って食べながら考えたこと。