混在

 一歩がわずか10cmと言ったら大げさなのだろうか。厳密に測っていないから確かなことは言えないが、傍で見ていたらその位に見える。歩いているのだが止まっているようにも見える。  タクシーの扉が開いてから薬局に入ってくるまでかなりの時間がかかった。タクシーが薬局の前に横付けされたのは気がついていたが、誰も入ってこなかったので、人が乗っていたと言うことは考えなかった。むしろ逆に、誰かを待っているのだと思った。ところがしばらくして、杖をついた小柄なおばあさんが、上述の如くゆっくり、本当にゆっくり入ってきた。  わずか数百円の買い物をして又帰っていく。どこから来ているのか分からないが、恐らく町内だと思う。ちょっとのものの買い物のために、タクシー代を使わなければならないのが気の毒だから、電話をしてくれれば配達すると何回か話したが、その都度断られる。品物の値段より数倍高くつくので気の毒に思うのだが、遠慮する。どう見ても一人暮らしで、身の回りのこともさぞ出来にくいだろうと思うのだが、気持ちをくんでくれない。その遠慮が見ていてつらい。どうしてそこで遠慮するのと言ってやりたいが、その遠慮こそがその老婆を支えてきたものかもしれない。色彩のない服を着て、口べたにやっとの事で意志の疎通が出来る彼女にどんな一生があったのか思いを巡らすが、明るい情景はなかなか描くことが出来ない。  家には若い者がいて、車もある。経済的にもきっと恵まれている。このような家が逆に遠慮無く配達を頼んでくる。そのこと自体は一向に構わないのだが、得てしてねぎらいの言葉やお礼の言葉の訓練が出来ていない。良くそれで世間が渡れてきたなと思うのだが、その人種に限ってその種のアンテナは持ち合わせていない。学ばなかったものが多すぎて、どこかに触覚を忘れてきた昆虫のようなものだ。回りの善意だけで生かされている。  老婆が又同じ歩幅で出ていった。僕はタクシーのシートに腰掛けるまで、支えてあげたのだが、運転手はただ見ていただけだ。僕と年齢が近いだろう運転手にとって、老婆は母親を思い出させなかったのだろうか。あの歩みを見て、手を貸さないのはかなり勇気がいる。心温まる光景も、心が凍てつくような光景も混在してこそ世の中なのだろうが、出来れば壁にかけた絵画の中の花でさえ光を受けて咲いて欲しい。