洪水

 この親にしてこの子か、この子にしてあの親かと思わせる体験を今日してきた。それも好ましい方の体験を。 カトリックでは神父は生涯独身を通す。財産も持たない。だから、なかなかなり手がいない。神に祈りを捧げ、キリストの言葉を伝えることのみに生涯を捧げる。世俗的な人間が欲しがる全てのものを放棄する。当然生半可な覚悟では出来ない。仮に本人にその気があっても、親が許さないことも多い。  僕が所属している玉野教会に今日韓国から3人の方が訪ねてきた。神父様のお母さんとお兄さんと叔母さんだ。偶然僕はその人達の隣に腰掛けたのだが、叔母さんの民族服でその人達が家族の方だと分かった。キム神父様は神父では珍しく韓流スター並みの風貌をしているのだが、そのお母様の美しさと品は半端ではなかった。恐らく60歳前後だと思われるが、ミサの間の振る舞いやミサ後の自己紹介のなんて奥ゆかしくて理知的だったことか。神様に息子を差しだすには、信仰の深さの他に、他者に対する慈愛を身につけていなければ出来ないのか。息子をよろしくなどとは一言も言わなかった。教会に集う信者の幸せをひたすら祈っていますと繰り返していた。何で繋がったのか分からないが、僕はずっと吉永小百合の微笑みを思い浮かべていた。何となく雰囲気が似ていたのだろうか。  そのお母様の前で、説教をされたが、人は死ぬ寸前に3つのことを後悔するらしいと言われた。施さなかったこと、我慢しなかったこと、頑張りすぎたこと。お金持ちでもそうでなくとも、もっと人に分かち合えなかったのか、あの時我慢しておけばもっと変わった人生になっていたのでは、がむしゃらに生きてきて、楽しむ余裕もなかったと言うことらしい。死ぬ寸前でなくてもすでにどれも当てはまっている。寝ても覚めても後悔の洪水に襲われている。世俗の中にどっぷり浸かっている僕は、内的要因ではなかなか生き方を変えることは出来ない。1週間に1度、見えるものは何一つ持たず、見えないものを大切に育てている人に会い、自分の見たくないものを一つでも減らせれたらと玉野市に通う。