当たり前

 僕が牛窓に帰ってから好んで付き合った人達でどうも人生が上手くいっている人はいないみたいだ。中にはそこそこの人もいるのだろうが、田舎のそこそこだから所詮しれている。食うに困らない程度という表現が適するだろう。元々立身出世するような人、人を押しのけて進むようなタイプは好きではないからつき合いがない。だから、多くを手に入れる人は元々身の回りにはいなかったのかもしれないが、多くを失いそうな人もいなかったのだが。 ところが、2年ぶりに来た嘗ての仲間を見て、あんたもそうかと言いたくなった。嘗てそうだったように、お金を持って入って来ない。当然つけがきくと思っている。嘗て潰瘍持ちの彼に何度深夜薬局を開け、薬を渡してあげただろう。その都度つけがたまりある程度の額になっている。そのことを言うと完全に忘れていた(らしい)。今日の薬の代金700円も持っていない。請求すると、来月の10日に払うという。60才近くなって700円が払えないのは、余程の不運か余程の不始末がないとあり得ない。前者なら勿論同情するが、僕の嘗ての仲間の共通する特性として、ほとんどの人が後者なのだ。だから同情もしない。人一倍酒をあおり、人一倍大風呂敷を広げ、人一倍ばくちをしている。世間の人が懸命に働いている時に、評論家ぶり、実力者ぶって、その裏で酒やばくちにのめり込んでいた。質素とか謙遜とか、多くの人達が不器用に守り続けている良識を馬鹿にしていた。  風呂に入っていないのか、どす黒く痩せこけた顔。これと全く同じ表情の男達を何人も見てきた。それぞれが家族を失い職を失い社会の信頼を失った。人は好きなもので滅ぶという。異性が好きな人は異性で、お金が好きな人はお金で、ばくちが好きな人はばくちで、酒が好きな人は酒で人生を失う。饒舌で人当たりがいい、これが僕が経験的に一番信頼できないタイプだ。当たり前に暮らしていく能力もない人間が、当たり前を卑下する。当たり前に脱落して、どう自分自身を総括するのだろう。この期に及んでまだ空虚な言葉を並べるのだろうか。