昨夜、急に妻が帰らないことになったので、1人で家にいた。のどが渇いたので、冷蔵庫を覗いてみても飲めるものは何もない。薬局に降りればリポビタンがあるので飲もうと思えば飲めたのだが、さすがに寝る前に飲むものではない。台所に名前は分からないが大きな柑橘類があったので、それを包丁で切って食べた。少しの間のどの渇きはごまかされたが、すぐに又水分が欲しくなった。自動販売機で何か飲料水を買ってこようか、それとも久しぶりにビールでも飲んでやろうかと考えたが、わざわざ出かけることが億劫だった。結局、思いついたのが水道水を飲もうと言うことだった。恐らく1時間以上どうしようか思案していたのだが、水を飲むという選択肢はそれまで全く浮かんでこなかった。僕の頭の中から水でのどの乾きを癒すと言う選択肢が消えていたのだ。所詮苦肉の策なのだが、これに気が付いたときは恐ろしくもあり、又残念だった。なんて贅沢なんだと、なんて不自然な嗜好を続けてきていたんだと我ながら情けなかった。単にのどの渇きを癒すためになんて贅沢な発想をしていたのだろうかと思った。  不便を不便と感じるから不便なのだ。不便ではないと思えば不便なんて何ら不便ではない。のどの渇きを癒すためなら、台所で蛇口をひねるだけでいいことを思い出した。甘みも清涼感も何もなくてものどの渇きは癒される。寧ろ何もない方が必要量が分かるかもしれない。癒されれば自然とコップを置く。ところが美味しく味付けされているものは、喉より頭で飲んでしまう。だからいくらでも飲んでしまう。のどの渇きを癒すどころか糖分で再び渇いてしまう。僅か一合の喉の渇きを得るために、コンビニやスーパーの棚にはペットボトルが数々並んでいる。喉の潤し代100円也。水道水をひねればただ也。環境にも悪影響しない。  知らない間に身に付いた贅沢。マネーゲームでつり上げられている物価に対抗することは簡単だ。昔を思い出せばいい。昔の知恵を借りればいい。そこかしこに知恵が転がっている。贅沢な心を排すれば、無味無臭の水さえもメダカを追ったせせらぎの味がする。