人が死ぬ前に後悔することに、およそ3つのことがあり、施しをしなかったこと、耐えなかったこと、幸せでなかったことだそうだ。これを聞いてなるほどなと思った。僕も年齢と共におぼろげながら感じるようになってきたものばかりだから。 何事も簡単に手に入れようとは思わなかったが、基本的には手に入れることのみが目的だったような気がする。子育てが終わった頃から、そんな生き方に満足できなくなった。手に入れたいものがなくなったのではなく、手に入れても満足をえられる確率がとても低く、空しさの方が数段上回り、虚無感しか残らなくなったからだ。特に物はもういい。自然を破壊して作ったものに囲まれても、動く範囲はせいぜい4畳半の畳の上だし、着る物も履く物も2つあればすむし、食べるものも米1合半でいい。人は空手で生まれ空手で去っていくという。途中も出来るだけ無駄を省いて、空手に近いのがいい。まして心はそうありたい。  耐えなかったことは数え切れないくらいある。そのおかげで今の自分しかない。あの時、あの時と時間をさかのぼって考えてみれば、今の自分はあり得ない。耐えなかった度に大鷲(?)は飛ぶ位置を低くし、今では田圃で稲穂を盗む小雀になってしまった。益鳥と呼ばれることもなく、かかしに追われる有様だ。  不幸ではなかったから幸せだった。これは、幸せでなかったから不幸だったとは両立しない。幸せを測れるのは、全く個人の秤しかないので、価値観を他人と比較することは出来ない。およそ価値観に近く生きれた人は幸せ、そうでない人は悔いが残る。人が価値観を追いかけるのか、価値観が人に付いてくるのか分からないが、動じない物差しを早く手に入れた人は悔いが少ないと思う。  満足を深くするために、日々の悔いを浅くして、上昇気流をつかんだ渡り鳥のように、何もない、まさに空(くう)の空を飛んでみたいものだ。