閾値

 正月の不摂生がたたったのか、5時間ずっと腰掛けっぱなしで慣れない勉強をしたのが原因か分からないが、久しぶりの腰痛で日曜日以降不自由だった。動作によってはすごく痛み、生活の質はかなり落ちていた。身体のひねりで一瞬痛みが走り顔をしかめるが、箱根の山を必死でたすきリレーした人達、K1でノックアウトされた人達の痛みに対する忍耐との差に我ながらあきれる。恐らく彼らが1感じる苦痛を僕なら10くらいに感じるのだろう。忍耐がないのか根性がないのか分からないが、苦痛にはいたって弱い。しんどい、痛いはもはや口癖になっている。  それ以下なら痛みを感じないと言うレベルを「閾値」と言う。僕はこの閾値が低いのだろう、痛みを感じてすぐ生活の質を落としてしまう。ぐっと耐えればいいのかもしれないが、その根性はない。ありとあらゆる薬を思案して早く脱出をはかる。こと痛みに関して言えば、薬を飲むとかでなんとかごまかす方法はあるが、社会的な生活の中での閾値の低下は、他人を傷つけ、社会を不快にしてしまう。毎日報道される殺傷事件は、生きていく上での閾値の低下を如実に物語っている。昔なら、いやいやそんな言葉を用いることもない、以前でいいだろう。以前ならぐっとこらえて見過ごしたり、やり過ごしてしまえることに、忍耐が無くなり、手を挙げてしまうのだ。どこで精神を鍛えることを置き去りにしたのか、どこで寛容を学ばなかったのか、まるでブレーキのない車が公道を頻繁に往来しているようなものだ。よほどの不運がその種のトラブルと遭遇するのではなく、よほどの幸運がその種のトラブルを避けれるような時代に今僕たちは突入しようとしている。  身の回りに溢れるモノ達が、感情の閾値をもし下げたのなら、勇気を持って捨てなければならない。モノで満たされるのはほんの刹那だ。モノに余韻はない。罪深い、欲深い大人達が作ったこの時代は言葉も感情もモノのように陳列され消費される。形無いモノまでが商品化される。形無いモノだけが人間としての閾値を上げているというのに。