青春

 「命に関わって仕事をしていたいから」さりげなく放った言葉に正直驚いた。数年働いた時点で知識や経験などは容易に追い抜くとは思っていたが、精神まで追い抜くとは思っていなかった。スポーツが好きでアカペラも好きで、その程度しか青春時代の情報は入ってはこなかった。ガリ勉とはほど遠いから何とかやっているのだろうと思っていたが、いつどの様に精神を鍛えたのか分からない。少なくとも勉強で鍛えたのではないことだけは確かだ。数学はもう2度とやりたくないと、同じ席で言っていたから。よほどいやな記憶があるのだろう。  かなり遠ざかった人間からしてみれば、青春は生命力に満ちあふれている。どの様に暮らそうが生命力だけは群を抜いて備わっている。活きる力がみなぎっている時代を、果敢に生きて欲しいと思うのは、そうしなかった人間の勝手かもしれないが、それでも尚、僕の机越しに腰掛ける人、電話の向こうにいる人、メールを受ける人には切にそう願う。命が体内で燃えている人は、見ていて美しいのだ。それは燃え尽きてしまいそうな人間には羨望の対象でしかない。その価値に気がついて欲しい。悩んで苦しんで彷徨うのもいい。しかし、それを必ず総括して以後の人生に生かして欲しい。精神を生み育てるのもまさに生命力溢れる青春時代なのだ。  青春は親を捨てる季節だ。無我夢中の映像の中に親の登場する余地など全くない。でこぼこの道を歩けば足の裏なんか自ずと鍛えられる。人生という茨の道を歩く足は、鍛えなければ与えられない。苦しみの向こうにしか喜びは見えない。喜びの向こうには喜びはない。苦しむことを苦しまないで。苦しむことは苦しみではない。青春に与えられた、生命力を一杯貯金している人達にだけ与えられたゲームなのだ。復活を約束されたゲームなのだ。残念ながらそのゲームに参加できなくなって初めて気がついた。