生活の質

 一人早く起きて、昨夜母のところでごちそうになった握りの残りを食べていた。おせち料理の残りも貰ってきていたので、皿を2つ用意して、一方には刺身しょうゆ、片方にはソースをたらした。箱根駅伝の復路を見ながら、働かなくてもいい日の朝を楽しもうと、準備万端だ。  油が酸化されている牡蠣フライでも、結構美味しい。水分が飛んで少し堅くなった握りを食べたとき、先に食べた牡蠣フライのソースの香りが少し残っていた。その後牡蠣フライと握りを交互に食べたのだが、いかを食べてもシャコを食べてもソースの味が舌に残ってしまう。何となく違和感は感じたのだが、駅伝に熱中していたのか、それ以上は気にならなかった。  握りが残り少なくなってからでもソースの味がするので、あらためて皿を見てみた。刺身しょうゆも、ソースも見た目には分からない。どちらも粘度が高いので区別が付きにくい。そこで箸を付けてなめてみると、僕が牡蠣フライにも握りにもソースを付けて食べていたことが分かった。なんと僕はソースを付けて握りを食べていたのだが、正直結構美味しく食べていたのだ。その後しょうゆに付けて食べるとさすがにそれまで以上に美味しかったが。  いかに僕の舌が鈍感か、味覚が鈍いかよく分かる。食事について量は常に問題だったが質を求めたことはほとんど無い。満腹かどうかだけが問題だった。おかげで何でも美味しかった。食事は犬のように飲み込んでいた。  恐らく日常生活にもこれと同じようなエピソードは繰り返されているに違いない。気がつかないだけだろう。それでも何とかなってきたのだから、生活の質は自ずと想像がつく。空腹と満腹を2つの皿に分けて箸を往復させているだけで、質を盛りつける技術は全く磨かなかったのだから。