派遣

 夜中、ラジオの深夜放送を目一杯ボリュームをあげられて、いやがおうでも聞かされた。何時に仕事を始めていたのか今になっては記憶がないが、終わった時間帯は記憶にある。明るくなってから、電車で名古屋に向かったとき、僕は新岐阜の駅からずっと立ったままよだれをくりながら眠っていたから。その時の記憶は、ハッキリとしている。何故なら、人間は立ったまま眠れるんだと、妙に感心したと言うか、自分では発見したといった方がより適切な表現だと思うが、感動をしたことを覚えているから。野球部の資金稼ぎの為に全員で行かされたバイトなのだが、数日で解雇になった。ベルトコンベアで運ばれてくるグリコのアイスクリームの箱詰めの仕事だった。唯一の午前3時の10分の休憩時間皆が眠り込んでしまったのが原因だった。数日分のお金と何故か日本酒の1升瓶を一つくれたことを覚えている。  大学から裏道を通って帰る細い田んぼ道の傍に、小さな古い工場があった。養鶏場を改装したようななんともみすぼらしいものだった。そこは木で出来た大きなボタンを作る工場だった。当時、ジャンパーにその様な大きな木のボタンがつけられたのがはやっていた。僕はそのボタンに穴をあけるバイトもした。留年して時間を持て余した頃だと思う。同じく留年していた先輩から譲ってもらったのだと思う。左手で大きな楕円形の素材を持ち金具に固定し、右手のレバーを下ろすと自動的にドリルが降りて来てボタン穴をあける。ただそれだけの作業だった。毎日数時間したのだろうか。窓の外を学校がえりの学生が通る。それを横目で見ながらひたすらボタンの穴をあけていた。いつまで、どのくらい続いたか記憶にない。覚えているのは窓の外の光景だけだ。僕には別世界のように思えた。  仕送りを拒否していたのでいつも金はなかった。自由を手に入れるために不自由を経験した。自由は手にはいったのかどうか分からない。延々と繰り返す単純労働は不自由の象徴でもあった。  何ら飾ることもなく、地元の言葉で話すとても可愛い女性がいる。(この歳になると娘の世代の子は全部娘と重なってしまい単純にこんな形容詞を使ってしまう)12時間立ち続けて、次から次へと送られてくるテレビ画面を検査する。リカちゃん人形が色彩を正しく発しているか検査するらしい。画面をじっと見つづけているらしい。おまけに、音声も検査するから、常にヘッドホーンをつけ、ブーッと音がなりつづけるのを確認するらしい。ただでさえ耳鳴りがする彼女は苦痛だ。この作業を延々と繰り返す。足がむくむのは全員が経験して、余りの苦痛にみな笑っていると言う。本来なら黙々と仕事をするのだろうが、笑いでもしなければ持たないことをみなが知っているからとその女性は言っていた。派遣だから時給1000円なり。ボーナスはない。勿論寸志もない。  派遣などと言うシステムを年寄りが決めて若者が犠牲になる。戦争と同じだ。年寄りがなにかの利益の為に戦争をはじめて、若者が死ぬ。こう言うと彼女は、「私らも戦争と同じじゃ」と言った。そうだ、まさに戦争だ。人間を人間と思っていない金持ちの年寄りたちと肉体を時間1000円で買われている若者達との。若者達、孤立しないで強きに立ち向かえ。