オートバイ

お盆休みを利用して旅行中か帰省中か分からないが、県外ナンバーのオートバイが、爆音を残して追いぬいていく。カーブで巧みに体を倒し、加速しながら曲がっていく。おそらくオートバイの一番ダイナミックな腕の見せどころなのだろう。  ああ、これはやってこなかったなあと、はるか遠くに小さくなる後ろ姿を見て思った。浪人時代、50ccの中古バイクを買って予備校に通った。その時山道で、ウインカーをつけずに急に曲がった軽トラの横腹に体当たりし、手の指を折った。牛窓に帰ってからは、毎日アパートからバイクで通った。1年目に同じく軽トラに後ろから跳ねられ、空を飛び道路にたたきつけられた。  この二つの体験から、バイクは危険と言うイメージが自分の中には出来あがってしまっていた。だから欲しいとも思わなかったし、乗りたいとも思わなかった。もし、大きなオートバイを買って乗りまわしていたら、今頃僕はいないかもしれないし、子供達もこの世に生を受けなかったかもしれない。  オートバイを乗りまわして、明日を失う確率が、ただ、ひたすら仕事をするだけの生活で明日を失う確率の何倍の危険度かしらない。明日が絶対来ると信じて疑わない生活を続けてきた。ところが、オートバイに乗ろうが乗るまいが、明日が来ないかもしれない年代に達してきた。今日1日かもしれない年代に達してきた。1日の重みは段々に増してきた。ダラダラと無限に押し寄せていた時間は、駆け足で去って行く物に変わった。ああ、今ならオートバイに乗れるなと思った。子供の為に絶対死んでは行けないと思って生きてきたが、役割はほぼ終えた。  焼けるような空気を切り裂いて走り去るオートバイの姿に自分自身を重ねた。そこには昼間からパチンコの台に向かって煙草の煙を吐きつづけていた、栄養失調の薄汚れた青年がいた。