目標

 それでもなおかろうじて人生の目標を持っていたのは、高校生、いや浪人時代までかな。いやいや、浪人時代はほとんどその目標も色あせて、いわば自壊の始まりだったのかもしれない。目標を持つと、それなりのエネルギーは沸いてくるのだが、もうその種のエネルギーとは何十年巡り会っていない。直近の、何々高校、何々大学に入りたいというのは、いかにも分かり易い目標だったが、入ってしまったらなにもなかった。入ることだけが目的化してしまっていたので、入ってしまったらそこで終わってしまう。飢餓を味わなかったせいで、満足も味わえなかった。いつも不満が渦巻いて、創造することよりも破壊することの方に興味が行った。  持たないこと、望まないこと、人生でいきて行く流儀はあるが、それは目標とはなりえない。あくまで手段であって、到達すべきところとは思っていない。資産家が幸せなのかどうか知らない。失うことは恐ろしいだろう。失う物がないほうが余程気が楽だ。アパートで誰かが捨てたしけもくを、焼け焦げて硬くなった先だけ捨てて吸っていた頃、体はガタガタだったけれど、ストレスはなかった。上がることはなくて、どこまで落ちるのか分からなかったけれど、ストレスはなかった。どうにでもなれと、どうにかなるが、いつも微妙なバランスを保って、緩やかに落ちていった。根拠のない自信は、目標を設定しないことにも大きく加担した。  行き先を知らされない遠足で、永遠に歩み続けられるだろうか。目標地点があるからこそ、人は歩き始められるのだ。僕は何度もスタート地点に立った。ただ、社会人になって一度も行き先を考えたことがない。だから今だここにいて、スタートの号砲に怯えている。