無縁

夕方帰っていった母が、又やってきた。2kmの距離を歩いてやってきた。近所の方に朝、頼まれていた薬を忘れたから取りに来たらしい。妻に車で送らせるから待っていてと言って2階に上がろうとする僕の腕をつかんで、「もういい、もういい」と繰り返す。87歳とは思えない強い力で引っ張られたので、僕は敢えて送らせないことにした。夕闇が迫る道を又歩いて帰っていった。  大正の女性は、と言うより僕の母は遠慮深くてよく働く。いつも自分を無能だと卑下するが、87歳にしてまだ十分薬局の役に立っているし、一人で暮らし自立している。おそらく60年、1日の休日も取らず父の薬局を手伝った。数年前の台風で薬局が浸水してできなくなってからも、僕の薬局に毎日来てはなにかしら仕事を見つけ動きつづけている。自慢を聞いた事がない。不服を聞いた事がない。どの家も皆貧乏だったから、貧乏なんて気にならなかったと言い、今でも質素に暮らしている。贅沢とは無縁の生活をしている。小遣いを溜めては、孫の為に使う。自分の為に買うものもない。ほしいものはいつも数百円で買えるものばかりだった。  母は最近、しばしば「私は幸せだ」と言う。そう言える理由をぼくは知らない。それにこしたことはないので敢えて理由は聞かない。あの年令で幸せだと言いきれる理由を聞いてみたい気もするが、照れくささが手伝って聞けない。少なくとも母が残したもので形あるものは少ない。装飾品は一切もたないし服装も質素だ。調度品は必要最低限のものしかない。しかし、母の影響は深いところで受けている。よく働くこと、謙遜であること、そして質素であること。これらが備わっていると無理をする必要がない。背伸びするのはしんどい。ありにままの自分で生きていくのが一番楽だ。失うものがなにもないのが本当の自由だ。